2015年12月30日水曜日

「風が見える」「カブトムシのにおい」 時として子どもは詩人だと思う

吹雪が2日ほどつづいたときに思い出しました。

もう10何年も前のことでしょうか。埼玉から弟の家族が函館に来て車に乗って出かけたんです。猛吹雪で雪がナナメにふってました。それを見て学校に上がる前の姪っ子が喜んで「風が見える!風が見える!」って。すごいなあと思いました。

それから去年のこと、夏休みにわが家で函館市内のオートキャンプ場にでかけました。借りたコテージには2段ベッドがあって、上のベッドからは屋根裏をのぞくことができました。ベッドにあがった孫のひまり。「わあ、カブトムシのにおいがする」と。ひまりだってカブトムシの匂いなんてしらないはず。どんな匂いなんだろう。いまだにわかりません。

時として子どもは詩人です。

2015年12月29日火曜日

本の表紙に中空土偶の写真 『北海道の歴史がわかる本』の魅力 

中空土偶といえば、函館市の南茅部地域で出土した函館市民にはよく知られている縄文時代の国宝です。この中空土偶の写真が表紙に掲載されている、桑原真人・川上淳著『北海道の歴史がわかる本』(亜瑠西社、2008年)は、楽しく北海道の歴史がわかる本です。


この本の特徴ですが、北海道の歴史を約3万年前の旧石器時代から21世紀の現在まで、全体を52のトピックで構成しています。ひとつひとつが1回完結のドラマみたいになっているので、「読み終わったあ」という気分を52回味わえます。

私はこの本で紹介されたところを時間があるときにせっせと通っています。今金町のピリカ旧石器文化館とか、続縄文時代の余市町のフゴッペ洞窟とか、網走市にあるオホーツク人の遺跡であるモヨロ貝塚館とか、上ノ国町の中世の遺跡、勝山館とか、新ひだか町のシャクシャインの記念館、夷酋列像展、樺戸集治監があった月形町の月形樺戸博物館など、ずいぶん楽しませてもらいました。

もうひとつこの本の特徴は和人史観から解放されていることです。「はじめに」のところで次のように書かれています。
北海道の歴史は、近代以降の「開拓の歴史」に矮小化されるほど、短くて新しいわけではない。何万年も前から人々がこの地に住み、今日に至るまで営々と歴史を刻んできている。また、北海道の人々は孤立していたり、停滞していたわけではない。古くから周辺地域の人々と活発な交易・交流を繰り返してきたのである。そういう意味でも、北海道の歴史は、日本史や世界史の中に正当に位置づけられなければならないと思う。
北海道の歴史の初心者が読んでもいいし、学んだことのある人にとっても味のある一冊。おすすめです。

2015年12月28日月曜日

五稜郭の戦いの始まり 「五稜郭の戦い 蝦夷地の終焉」その5

菊池勇夫著『五稜郭の戦い-蝦夷地の終焉』を読み進めて、いよいよ「五稜郭の戦いの始まり」まできました。

ここで私が面白く読んだのは、当時の亀田地域のことが載っているところです。函館市は何度かの合併を経て現在の函館市になっています。温川町(1939年)、銭亀沢村(1966年)、亀田市(1973年)、戸井町、恵山町、椴法華村、南茅部町(以上2004年)の順となっています。

私は旧亀田市地域に住んでいるので、亀田の地名が出てくると何度も繰り返し読んでしまいます。亀田にはもともと6つの村がありました。桔梗村、亀田村、石川村、赤川村、神山村、鍛冶村です。

私の住んでいるのは北美原という地域なのですが、住所表記が変わる前は亀田中野町といいました。もともとは中野町だったのでしょう。旧函館市にも中野町があったので、混同することを避けて亀田中野となったのだと思います。

その中野町は、石川村だったのか、赤川村だったのか、おそらく石川村だったのだと思います。わが家の近くを流れる中野川にはこんな看板があります。

渡島地方南部は南半分が平地、北半分が丘陵山間地である。地名は南部の平地が先に開けた石川地区と赤川地区の間に位置していることから、中野となったと考えられ、この地に流れている川を中野川とよぶようになった。
さて話は「五稜郭の戦い」に戻るのですが、五稜郭の戦い(箱館戦争)の戦闘は峠下(現在の七飯町の一部)で始まりました。新政府軍側は旧幕府軍側に敗退していきます。大野村でも敗退し、その中ではぐれてしまった人が、中村雅之進という人。以下、本文を引用します。
中村は、まず石川村の方へ行き、民家に寄って朝飯を食べる。主人が懇ろに介抱してくれたが、この村には「賊」が多く通行しているというので、
いったい石川のどのへんだったのでしょう。石川町会は歴史を大切にしている人たちなのであるいは知っている人がいるかもしれませんね。さて続きです。
東の方へ向かい、畑、林の中を経て滝ノ沢へ着く。
石川から滝ノ沢までどのようにたどりついたのでしょう。石川から赤川へ、さらに現在の陣川の丘に入ったのでしょうか。そして東山、山の手、日吉を経て滝ノ沢にたどりついたとか想像しています。さらに続きます。
人に逢うことを恐れ、山上・樵路のみを経過した。・・・やがて炭小屋があり・・・・・・
「樵」というのはきこりですから、樵路は林道ですね。滝ノ沢からどこの山に入ったのでしょうか。興味深いですが、よくわかりません。 この中村は助かったとのことですが、いまから150年以上も前に、私が住んでいる地域を舞台にこういうことがあったんだなあと不思議な気分になります。

函館の樺太引揚者上陸記念碑-叔母は樺太引揚者その1  

今年の6月、横浜在住の私の80歳の叔母(父の妹)が来函。叔母は樺太引揚者です。住んでいたのは恵須取というところです。

久しぶりに函館に来たので、函館市役所の近くにある「樺太引揚者上陸記念碑」に連れていってあげました。下はその時の写真。叔母とその娘、私から見ればいとこにあたります。



碑文の内容は以下の通りです(読める部分だけ書きとりました)
昭和20年8月15日大東亜戦争終結の詔勅が〇発せられ樺太はソ連軍の占領する地となった。
当時在留日本人は約40万人終戦前後の混乱期に樺太庁は老幼婦女子の緊急疎開を実施したが漸次それも不可能となり残留者は一日千秋の思いで祖国への帰還を待った。
昭和21年12月5日第一次引揚船が真岡より函館港に接岸してから第五次最終引揚船に至るまで当地に上陸した引揚者の総数は31万1452人であってその再生の第一歩を卸したこの地に樺太引揚者上陸記念碑を建立し併せて不幸引揚船中に於て死亡せられた156名病院にて死亡せられた923名合計1279名がこの地に眠る。
以て有志相諮り永久にこれら犠牲者の霊を弔う
昭和52年9月12日   
社団法人全国樺太連盟
函館支部長 寺田稔     

2015年12月27日日曜日

「共産党アレルギー」 -私はこう考えます。

私は共産党の公認候補として5回選挙に出ました。2回は衆議院北海道8区候補として、3回は函館市議会選挙の候補としてです。3度の市議選では当選し、衆議院選挙では落選しました。

最初の選挙、1996年の衆議院選挙のとき、ある新聞社の取材を受けました。「こういうことを聞きたい」という項目が書かれた紙が事前に渡されました。その時、インタビューする記者への注意書きも間違って混じっていました。そこには「共産党の候補者はみんな同じようなことをいうのでその人らしさをひきだしてください」的なことが書かれていました。

たしかに共産党は、みんなで議論をして方針や政策を確立したら、候補者はみんなその政策を語ります。それが有権者に対する責任だからです。しかしその語り方が紋切り型であったりして「共産党の候補者はみんな同じようなことをいう」という印象を持たれていたのかもしれません。

さて、ここで話は変わります。

戦争法(安保法制)が成立したその翌日、共産党は国民連合政府をつくろうという呼びかけを発表しました。

戦争法は通っちゃった。でもこのままでは終わらせないゾ。戦争法(安保法制)を廃止しよう、そのもとになった集団的自衛権容認の閣議決定も取り消そう、そして日本の国の民主主義や平和主義や立憲主義を取り戻すゾ、そのために、戦争法に反対した野党が力を合わせて政府をつくろう、選挙協力をやろうという呼びかけです。

国民連合政府の呼びかけは、多くの人に歓迎されています。私も実現のためにがんばりたいと思います。同時に、野党が協力するうえで、野党や市民の中に「共産党アレルギーがあるのでは?」という声もあります。

市民の中には、「革命って怖い」とか「(共産党が一緒にやれば)保守票が逃げる」とか「旧ソ連や中国と重なる」とか、そういう誤解もあります。でもその誤解は解けばいいのであって、誤解とは次元の違う「アレルギー」があるのかもしれません。

そのヒントとなることを「しんぶん赤旗」日曜版の11月29日号、劇作家・演出家の平田オリザさんのインタビューの中にみつけました。彼はこういっています。
共産党には自分だけが正義だという主張ではなく、しがらみのために声を上げられない人たちに対しても、ぜひ信頼と連帯の気持ちを持ってほしい。
「自分だけが正義だという主張ではなく」というところ、なんとなくわかるような気がします。共産党の候補者というのは、政策に確信を持っているので、その訴えが「自分だけが正義」に聞こえることがあるのかなと。

ここで話は冒頭の私の体験に戻るのですが、 やはり共産党の候補者、そして党員は、自らの言葉で語ること、心から語ること、画一的でない魅力的な語りが必要なんだと思います。語りのしなやかさ、ひたむきさ、やさしさ・・・。言うは易し行うは難しですが。

志位委員長も、「共産党への拒否感を持つ人はまだいると思います。そこは私たちももっと努力が必要です」といっています。努力がどういうものなのかはわかりませんが、私の言ってることも入ってるだろうと思ってます。

もっとも、戦争法を廃止するためには他の野党のみなさんもアレルギーとか言ってられませんよね。民主主義か独裁かのわかれみちですから。

あの生活の党の小沢さんがうまいことをいってましたね。「『共産党と共闘するなんてけしからん』という人がいる。だけど、薩摩と長州が手を握ってはじめて明治維新ができたのです」と。

2015年12月26日土曜日

戦いの場となった主要施設-「五稜郭の戦い 蝦夷地の終焉」その4

ひきつづき面白く菊池勇夫『五稜郭の戦い-蝦夷地の終焉』を読み進めています。「戦いの場となった主要施設」では、五稜郭、四稜郭、東照宮、弁天岬台場や矢不来の台場など、千代ヶ岡陣屋、戸切地陣屋、福山城(松前城)、館城が紹介されていますが、「へえぇー」ということがたくさんありました。いくつか紹介します。

東照宮も戦いの施設だった?
五稜郭の完成に合わせて函館奉行は、鬼門(北東)にあたる上山村(神山村と改める)に守護神として東照宮を建立したが、旧幕府軍はその境内も土塁で囲み、権現台場としている。
→東照宮が権現台場とはびっくりですね。そして神山はもとは上山だったんですね。東照宮をつくることによって「神の山」になったんでしょうか。
東照宮も戦火で焼け、その後は転々とし、現在は元の場所近くに移ってきている。
矢不来の台場跡を偶然みつけました

この本では矢不来(やふらい)の台場のことは詳しく書かれていませんが、 今年の秋、偶然矢不来台場跡を見つけました。

茂辺地川のサケを見たあと、橋を渡りのぼっていくと、茂別館跡に出くわしました(これはこれでまだ別に紹介することがあるかもしれません)。戻らないでさらに進んでいくと、切り立った崖の上にでます。そしてこんな看板が・・・

箱館戦争のとき、もっとも激しい戦いがあった台場です。箱館の押付台場と向かい合い、箱館湾を守るため、前幕領時代(1799~1821)に造営され南部藩が守備しています。
安政元年(1854)蝦夷地はふたたび幕府の直轄地となり、箱館奉行の武内保徳などにより、この台場の増強が必要なことを幕府に上申しています。 
明治2年(1869)の箱館戦争では、この台場を幕府脱走軍(榎本軍)が修理し、新たに第2台場を造営して大鳥圭介ほか約500名が、守ってきましたが、同年4月の官軍による激しい砲撃・艦砲射撃にあい七重浜に退散しています。
この戦いで衛峰隊隊長、天野新太郎ほか死傷者約70名を出しています。 

千代ヶ岡陣屋は亀田村にあった?
千代ヶ岡陣屋は五稜郭の戦い以後、廃墟になったとのことで、現在の中島小学校あたりが陣屋跡とのことですが、私が不思議に思うのは、千代ヶ岡は亀田村とのこと。函館市中島町は亀田市との合併前から函館市ですが、昔の亀田村は現在の函館市域に食い込んでいたということなんでしょうか。不思議です。

箱館付けの村々のこと 「五稜郭の戦い 蝦夷地の終焉」その3

菊池勇夫著「五稜郭の戦い 蝦夷地の終焉」(吉川弘文館)を読み進めています。「幕末函館の都市景観」というところなんですが、興味深くひきこまれていきます。もっとも函館の人間でなければわからないかもしれませんが・・・・・・。またまたつまみ食い的紹介を――。

1860年に刊行された「官許箱館全図」という地図の説明の中で、「亀田」が「箱館」より栄えていて役所も亀田におかれていたとのこと。

亀田市は1973年に函館市に編入されていますが、「箱館」より栄えていたんですね。
亀田市の地名の由来については私のブログに書いたことあります。
「亀田市と千歳市 「鶴は千年、亀は万年」つながりの姉妹都市

五稜郭の戦いの舞台となった箱館周辺の村のことについても説明があります。
箱館付きの村は歴史的に3つに分けられる。
「箱館付き」の「付き」とはどういう意味なんでしょうか。「付近」という意味かな?さてその3つですが
従来からの松前地(和人地)と
寛政12年(1800)「村並(むらなみ)」(松前地化)になった恵山から内浦湾(噴火湾)にかけての「6か場所」と呼んだ沿岸地帯の村と
元治元年(1864)村並になった山越内(ヤムクシナイ)・長万部(ヲシャマンベ)両村
旧幕府軍上陸の地、鷲の木や土方歳三が進んだ鹿部・川汲は「六か場所」にあたります。

実は以前、八雲に行く途中こんなのを発見したんです。蝦夷地・和人地の境跡と書いてあります。


横から見ると「野田追場所と遊楽部場所の境であったこの所は、享和元年(1801)に小安、戸井、尻岸内、尾札部、茅部、野田追の六箇場所が村並になったのにともなって定められた江戸時代の蝦夷地と和人地の境です」と書かれています。

その後、八雲や長万部も1864年に和人地になったということですね。
なお、この看板(?)は、別の投稿でも紹介しました。
川と川の名前を知りたい理由

「和人」の意味 「五稜郭の戦い 蝦夷地の終焉」その2 

私も和人ということばを使いますが、その定義というか、意味を深く考えたことがありませんでした。

「五稜郭の戦い 蝦夷地の終焉」で紹介されていました。
なお、「和人」というのは、近世後期以降、アイヌ内国民(日本人)化のなかで、対アイヌ関係の文脈で使われるようになった民族的な自称である。
「五稜郭の戦い 蝦夷地の終焉」ってどういう本? 

2015年12月25日金曜日

「五稜郭の戦い 蝦夷地の終焉」ってどういう本?

函館中央図書館からよく本を借りるのですが、読みたい本がたくさんあるため、勢い余って、私の読む能力を超えて、借りられる限度いっぱいの10冊が私の手元にあります。

もし、貸出期間の2週間で読み切れなければ、延長をかけることができる、そう思えば気が楽なのですが、私のあとに「予約」が入れば延長できず、2週間で予定通り返却しなければなりません。

したがって「予約」がある本を先に読むことが必要です。それがこの本、菊池勇夫著「五稜郭の戦い 蝦夷地の終焉」(吉川弘文館)です。図書館の本なのに新品、それもそのはず、2015年10月1日発行とあります。

いま、「プロローグ 持ち込まれた戦争」を読んだばっかりですが、プロローグには、「五稜郭の戦いを述べていくさいの、およその心構え」が書かれています。印象に残ったところ、おもしろいなとおもったところをつまみ食い的に引用します。

まず、五稜郭の戦い(箱館戦争)は「地域の権力や人びとが起こしたのではなく、外から持ち込まれた戦争」というのが何よりの特徴。「旧幕府軍がやってこなくれば住民が戦争に巻き込まれることはなかった」と。

2つめに、この本は「『賊徒』という見方はとらず」、つまり官軍史観からはなれて、「また、敗者に肩入れするというものでもなく、地域住民、民衆からの視点を大事にし、新政府軍と旧幕府軍との戦いとして、やや突き放した位置から述べたい」と言っています。つまり等距離ということです。

3つめに、五稜郭の戦いは、箱館だけではなく、道南だけでもなく、「津軽海峡を挟んだ地域の広がりのなかで捉えるという視座が必要」だそうです。

4つめに、榎本軍が清水谷(この人は新政府の箱館裁判所の総督とのこと)、を敗走させたあと、戦いのない期間が数カ月にせよ存在した」ので、蝦夷地政府の行政運営を示してみたい。どう地域社会に向き合ったかということですね。

さあ、はじまりはじまりです。

2015年12月23日水曜日

トマトの赤い色素はリコペンかリコピンか?

だいぶ前のことです。私のブログ「ふしぎの植物学『たたかうトマトは美しい』」にトマトの赤い色素を「りコペン」と書いたら、「リコピン」の間違いではないかと指摘を受けたことがあります。その時は、「その本にそう書いてあったから」と言い逃れをしたんですが、今回「植物はすごい 七不思議篇」を読んで解決した上に、新しいことを学びました。
「ふしぎの植物学『たたかうトマトは美しい』」

さて、どういうことかというと、「りコペン」は英語で、「リコピン」はドイツ語とのことだそうです。同様に「カロテン」は英語、「カロチン」はドイツ語。

私が学んだ新しいことというのは、トマトの学名のこと。学名はラテン語なんですが、「リコペルシコン・エスクレンタム」というそうです。トマトの赤い色素リコペンの名前は、この学名の「リコペルシコン」に由来するとのこと。

「リコペルシコン」の意味は「狼のモモ」、「エスクレンタム」は「食べることができる」、あわせると「食べられる狼のモモ」となります。

上川郡鷹栖町の特産品「オオカミの桃」というトマトジュースはこの学名からきているそうです。

お勧めの「植物はすごい 七不思議篇」についてのブログはこちら
やっぱり期待通りだった 「植物はすごい 七不思議篇」
植物はすごい 絶対のお勧めです

ひまりからサンタさんへの今年の手紙

ひまりからサンタさんへの今年の手紙、やっと書けました。


サンタさんへ
こんにちは。
わたしは、サンタさんから、スプラトゥーンがほしいです。
でも、それにひつようなパッドがありません。
なのでわたしは、サンタさんから、スプラトゥーンと、それにひつようなパッドを、
サンタさんからのプレゼントとして、わたしの家にきて、
プレゼントをわたしのねているちかくにおいてください。
あと、かならず、げんかんからはいってください。
いちかいにあめがあるので、いちかいにいってからにかいにいってください。
ひまりより

追記
この手紙は、クリスマスにサンタさんが間違わないように、おかあさんが今日、サンタさんに届けるそうです。

「あさが来た」-日本が外来語を受け入れてきた過程がよくわかる 「しびれ芸者」に「びっくりポンなカッパ」

毎日の朝ドラ「あさが来た」を楽しんでいます。今日は、あさが武田鉄矢扮する福沢諭吉に「しびれ芸者(シビリゼーション)」と言って説教?するシーンが出てきました。

以前には「ビッグなカンパニー」のことを「びっくりポンなカッパ」とも言ってましたね。

そうそう、シェークハンドは、日本語に訳さずにそのまま使っていました。

日本人がどのように外来語を受け入れてきたのかがわかって面白かったです。

さて、福沢諭吉ですが、映画かなんかで見たのですが、もうオランダ語の時代ではないと言って、アメリカに行くシーンがありました。そんなことを思い出しました。

あさが来たに出てくる人たちはみんな魅力的です。

2015年12月22日火曜日

韓国の時代劇ドラマで王様に向かっていう「チョナー」という言葉は?

韓国の時代劇ドラマで王様に向かってよく「チョウナー」と言うんですが、あれはどういう意味なんでしょうか。

私は「좋다(チョッタ)」の変化形じゃないかと思うんですが、よくわからない。

それから、「奇皇后」では皇帝に対して「ペーハー」と言ってますが、あれは「陛下」って聞こえるんですが、どうなんでしょう。

知っている方、教えてください。

恥ずかしながらハングル能力検定3級の結果をお知らせします

11月に受けたハングル能力検定3級の結果がきました。予想通り不合格です。しかも100点満点で24点。試験問題はすべて4択でしたから、でたらめにやっても確率的には25点とれるはずなんですけど。来年の春めざしてまた勉強します。


歴史的仮名遣い(字音仮名遣い)を学習すると韓国語に強くなるかもしれない

「公園」の「公」、「健康」の「康」、「光線」の「光」はいずれも「こう」と読みます。

でも、韓国語では、全部、違います。「公園」は、「공원」ですから「公」は「공(コン)」です。「健康」は「겅강」ですから「康」は「강(カン)」と読みます。「光線」は「광선」ですから「光」は「광(クン)」と読みます。たしか韓国ドラマ「馬医」の主人公「ペク・クンヒョン」の「クン」は「光」という漢字でしたね。

日本語では全部「こう」なのに、韓国語では漢字の読みは全部違うのです。

しかし、日本語の歴史的仮名遣い(字音仮名遣い)では、「公」は「こう」、「康」は「かう」、「光」は「くう」です。ぐっと韓国語の読みに近づいてきます。

ということは、歴史的仮名遣い(字音仮名遣い)がわかれば、韓国語の漢字語に強くなるということですね。

韓国語ドラマを見て、「日本語と韓国語は似てるよね。『約束』とか『三角関係』とか発音ほとんど同じですもの」という人がいます。そりゃあ、どちらも漢字語だから当たり前なんですけど・・・

でも、私は韓国の固有語(日本語で言えば大和ことばです)の方がわかりやすいと思います。漢字語は、発音を聞いて、なかなか漢字をイメージできないんですね。ちょうどいま日本語の古典も勉強し始めたところなので、字音仮名遣いに注意しながら、韓国語学習に連動させていきたいと思います。

2015年12月21日月曜日

「英語重視ばかりでは」という記事を読んで 私もヘンだなと感じていました

小学生の早いうちから英語の授業が始めるとかいう話を聞いて、漠然と何かヘンだなと思っていました。

ひとつめに、教育的に好ましいことなのかということです。九九でつまずきそうな2年生のわが孫を見ていて、また、英語という難題を抱えてやっていけるのかということが頭をよぎるのです。今日なんか、宿題の「8」の段をつまずいて、ちょっと訂正しようものなら、泣いて怒ってしまって、「もう四人も九九をセーハしたのに」と、消しゴムを投げるやら、「九九がんばりカード」を投げるやらで大変なんです。

ふたつめに思うのは、何で英語なんだろうかということです。英語が言語学的に世界の代表的な言語何だろうかと思うのです。昔というか、私が大学の頃、他の大学に入学した友人に「第二外国語は何をとった?」と聞かれたりしました。第一外国語は英語ということなんでしょう。その時もヘンだなと思いました。さいわい、私の大学では、第一、第二の区別はなく、2つの外国語、たとえば中国語とドイツ語を履修してもかまいませんでしたが。

みっつめに、それでなくても日本という国は、アメリカの属国のようになっているのに、言葉まで英語ばっかりになってしまったら、なんか植民地みたいだなと、そんなことを思ってしまうのです。

今日、北海道新聞で次に紹介する記事を読んで、なるほど、なるほどと思い、紹介します。この記事の中で紹介されている施光恒著「英語化は愚民化」(集英社新書〉を実は私も函館中央図書館から借りて手元にありますので、こちらも読んだら感想を書きたいと思います。
「風」 論説委員室から
「英語重視ばかりでは」
和田年正
北大植物園の宮部金吾記念館にあるそのノートは、見る者に強い印象を与える。
植物学の授業のノートだろうか。精密なスケッチ画ともに見事な筆記体の英文が連なる。日本の植物学の草分けで植物園の生みの親でもある、宮部博士の若き日の記録だ。
札幌農学校の2期生だった宮部や新渡戸稲造らは外国人教師から英語で受けた授業を筆記。寮で清書し、添削を受けて英語力を身につけた。
約140年前の明治初期。農学校を含め、日本高等教育のほとんどは英語など外国語で行うしかなかった。
それが明治20年ごろになると、日本語での授業が一般的になる。学術用語の翻訳が進み、外国人に学んだ日本人教師も育ってきたからだ。
宮部らの世代はいわば橋渡し役だった。明治の先人は母国語による近代化を選び、西洋文明を日本語の知識体系に変換することに成功した
ところが、最近の日本では政財界中心に、明治以来の近代化の歴史の逆を行くような、極端な英語化政策が推し進められつつある。
「グローバル化」を旗印に掲げ、「英語特区」構想や英語で抗議を増やす「スーパーグローバル大学」、さらに一部企業の英語公用化-。
これに警鐘を鳴らすのが政治学者の施光恒九大大学院准教授だ。著書「英語化は愚民化」(集英社新書〉は英語偏重の弊害を次のように説く
西欧の近代化は、ラテン語を解する特権階級だけの知識を各国語に翻訳したことが基礎になった。日本の近代化もまさにこれに重なる。
母国語でモノを考えることの大切さ、有利さは計り知れない。ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英博士は英語嫌いでも知られるが、中国や韓国を訪れて、母国語で専門書を読める日本の優位性をしみじみと感じたという。
だが、グローバル化とセットになった新自由主義経済は言語や文化を障壁と見なし、英語を覇権言語とする秩序を強いる。そうした序列の下では、日本人はいくら学習しても、英米人や英語が不可欠な旧植民地のインドなどにかなわない。日本人は英語能力により、知的・経済的に分断され、良質な中間層と知的格差の小ささなど特質を失う-。鋭い考察と指摘が続く。
学校でも「グローバル社会で求められる英語教育」が進む。確かに「聞く」「読む」「話す」「書く」の4技能すべてができるのは望ましい。
しかし、小学校での早期教育には賛否両論がある。
文部科学省は次期学習指導要領で2020年から小3で英会話を導入し、高学年は授業時間も倍にする方向だ。
心配なのは、英語以外の基礎学力の行方だ。全国学力テストで北海道の成績は改善方向にあるものの、基本的な読み書き計算に難があるとされる下位層(全国平均の下位25%相当)は、道内の小学生のなお3人に1人に上る。
道内の教育関係者は「下位層の子どもは先生の話すの多くを頭の中で漢字に換えられず、文章題も理解できていない」と指摘する。
小学校での英語教育を進めるには、日本語の読み書きなど、子どもの基礎学力の土台をしっかりさせることが不可欠だ。他の教科がおろそかになるようであれば、英語教育の拡充も意味を失う。(北海道新聞12月21日付から)

やっぱり期待通りだった 「植物はすごい 七不思議篇」

まだ読んでもいないのに絶対のお勧めと紹介した田中治著「植物はすごい 七不思議篇」(中公新書2328)はやっぱり期待どおりでした。
「植物はすごい」 絶対のお勧めです

7つの植物の「不思議」について「へえぇー」と思わせてくれます。7つとはサクラ、アサガオ、ゴーヤ、トマト、トウモロコシ、イチゴ、チューリップです。その7つの植物ごとに7つの不思議。7×7=49の不思議が書かれているのです。

私たち北海道の人間にも関心のある「なぜ、北海道では、ウメとサクラが同じころに咲くのか?」という項目もあります。ちょっと紹介しましょう。
ふしぎの四 なぜ、北海道では、ウメとサクラが同じころに咲くのか?
“開花前線”の不思議とは?
北海道では、五月はじめのゴールデン・ウィークのころ、ウメとサクラがほぼいっしょに咲きます。ウメとサクラの開花のコラボレーション(共同演出)が楽しめると、北海道の観光がアピールされることもあります。そのような観光案内を自にすると、「なぜ、北海道では、ウメとサクラが同じころに咲くのだろうか」?という素朴な“ふしぎ” が浮かびます。
サクラの開花前線もウメの開花前線も、暖かい地域から北上していきます。九州や四国の暖かい地域では、ウメの花は1月下旬に咲きはじめ、サクラの花は3月下旬に咲きはじめます。そのため、それらの地域では、ウメとサクラの開花の時期は約2ヵ月間離れています。
それに対し、関西地方では、ウメは2月中旬から咲きはじめ、サクラは3月下旬から4月上旬に咲きます。ですから、ウメとサクラの開花の時期は、約1ヵ離れています。関東地方では、ウメとサクラの開花の時期は、ほぼ1ヵ月少し離れています。暖かい九州や四国の場合と比べると、ウメとサクラの開花時期の差は少し縮まっています
青森県や秋田県、北海道など寒い地方では、ウメの花は4月下旬に咲き、ほとんど間隔を置かずに、サクラが咲きはじめます。北海道では5月の初旬にウメとサクラがいっしょに咲くこともあります。
九州から日本列島を北に行くほど、ウメとサクラの開花時期は接近してくるのです。この現象に対し、2つの可能性が考えられます。1つ目は、北に行くほど、桜の開花が早まって、ウメの開花に追いつくことです。2つ目は、北に行くほど、ウメの開花が遅れて、サクラの開花に追いつかれることです。
春に開花するウメは、サクラと同じように、ツボミを前年の秋までにつくります。そして、秋に、冬を越すための硬い芽である越冬芽をつくり、その中にツボミを包み込みます。芽は冬の寒さを体感して目覚め、春の暖かさに反応して開花します。これは、サクラの場合と同じ性質です。ですからウメもサクラも「春に暖かくなると、花を咲かせる」といわれます。
しかし、ウメとサクラが暖かさに反応して花を咲かせる性質には、大きな違いがあるのです。そのため、ウメとサクラの開花前線の北上のしかたに違いが生じるのです。どのように違うのでしょうか。
なぜ、サクラは追いつけるのか?
九州では、ウメの花は1月下旬に咲き、サクラの花は3月下旬に咲きます。青森県や北海道では、ウメとサクラが同じころに咲きます。その原因を考えましょう。暖かい地域として鹿児島市、寒い地方として北海道の札幌市、その中間の地域として京都市を選び、ウメとサクラが花咲くころの平均気温を比較してみます
鹿児島市では、ウメの花が咲きはじめる1月下旬の平均気温は6-9度です。京都市や札幌市でも、ウメの花が咲くころの平均気温はほぼ6-9度です。ということは、ウメの花は、鹿児島市、京都市、札幌市と北上しても、ほぼ同じ気温になると咲いていることになります。ウメの花は、全国的に、ほぼ同じ気温で咲いているのです。ウメの開花前線は、暖かさが北上するのと同じように北上しているのです
それに対し、サクラの花が咲きはじめる3月下旬の平均気温は、鹿児島市で13度前後、京都市で11-12度です。札幌市では、サクラの花が咲きはじめる4月下旬の平均気温は9-10度です。京都市でサクラの花が咲くときの気温は鹿児島市で咲くときの気温よりも低く、さらに、札幌市でサクラの花が咲くときの気温は京都市よりも低いのです。北に行くほど、サクラが開花する時期の平均気温は低くなっているのです。
つまり、「春に暖かくなると、花を咲かせる」といわれますが、ウメは同じ温度で開花しているのです。ですから、ウメの開花が遅れて追いつかれるのではなく、サクラの開花前線がスピードをあげて追いついてくるのです。
サクラが開花する暖かさは、北ヘ行くほど、低くなっているのです。ということは、「サクラの開花前線のスピードが、北上するほど速くなっている」ということであり、「サクラがウメの開花に追いついている」といえます。
「目覚めが良い」といわれるサクラでは、冬の寒さのきびしさは、花が咲くために必要な“暖かさ” に影響するのです。冬の寒さがきびしいほど、暖かさの程度が低くても、花が咲くということです。
ウメもサクラも、「春に暖かくなると咲く」といわれますが、ウメは開花する暖かさが全国で同じなのに対し、サクラは地方により違うのです。札幌市では、鹿児島市や京都市ほど気温が上がらなくても、サクラは開花するのです。そのため、4月下旬に花が咲きはじめるウメに続いて、間隔を置かずに、サクラの花は咲くのです。
「目覚めが良い」という現象の一つは、「寒さがきびしいほど、開花の準備が早くに整い、開花できる暖かい温度に出会うと、すぐに反応できる」ということです。もう一つの現象は、「開花できる“暖かさ”の程度に影響する」ということです。花が咲く“暖かさ”が、冬の寒さのきびしさによって変わるのです。「目覚めが良い」と、“暖かさ”の程度が低くても、花が咲くのです。
※田中治著「植物はすごい 七不思議篇」(中公新書2328)から引用
すごいですね。やっぱり期待どおりです。これが49の「不思議」のうちのひとつ、絶対にお勧めです。

新聞整理はこうやってます

以前、私の職場の机の横には新聞がどっさり積んでいました。いつかはまた読むと思いつつ、山が高くなっていきます。結局は読み返すことあまりなく、ひもで縛って新聞回収へ。自宅でもそうでした。

いまはこうやっています。わが家では日刊新聞は2紙とっています。まず、新聞の折り目をツメで擦りながら押しつけ、2つに割きます。次に、広告のページとか読まないページは、すぐに新聞回収袋に入れます。一枚一枚ばらして読みやすいページから読んで、読み終わると回収袋へ。いつでも古紙回収に出せるようにしておきます。

保存したい記事は、日付を手書きでつけて、写真に撮って、Cam Scannerというアプリで長方形にして、iPhoneに保存。全部読まなくても、これから読むページだけが残るので、うず高く新聞が残ることもありません。空間の節約です。

私がSNSでずいぶん前の記事のことを書くことが多いのも、読み残しの記事をあとで読むことが多いからです。

まあこれも時間があるからなんですけど。

2015年12月20日日曜日

肉の読み「にく」は訓読みか音読みか

孫のひまりが学校の宿題をやっています。漢字の書き取りは「肉」の字。「肉まん」と3度書いて、「おじいちゃん、肉まん食べた~い」と。


さて「肉」と書いて「にく」と読む。これは音読みですが、では訓読みは?もともとは「しし」だったようです。

笹原宏之著「訓読みの話 漢字文化圏の中の日本語」(光文社新書 352)にはこんなことが書いています。
消えた和語
「肉」は、音読みである「ニク」が現在ふつうに使われているが、これは、実はもともとの和語である「しし」を駆逐したものである。「いのしし」も、元は「猪のしし(肉)」という意味であった。今では、「しし」は「宍戸」、「宍道湖」など固有名詞の中で化石のように残るだけである。
「肉」と「宍」とは全く違う漢字のように思えるが、元を辿れば、「肉」を書きやすくするために六朝時代(3~6世紀)の人々が変形させたものが「宍」であった。古代の日本では、当時の中国のそうした風潮に従い、「肉」よりも「宍」を用いたため、古語の「しし」に一時期流行した俗字「宍」が定着を見たのである。
消えた和語について他の例を挙げると、古くは「脳」には「なづき」(なずき)「地震」には「なゐ(ない)」(のちに「なゑ」とも)、「暗礁」には「いくり」という和語があった。しかし、今では東北地方や九州といった日本列島の周辺部などで方言や固有名詞に残る程度となっている。
 以前、訓読みについてこんなことを書いたことがあります。「政治の訓読み」

夫婦同姓合憲判決と私のおばあさんたちの姓

民法の夫婦同姓規定に最高裁は合憲判決を出し、選択的夫婦別姓を希望する多くの女性を悲しませることになりました。

私はこの一年間ほど自分のルーツ探しをしていますが、それは私のおばあさんたちが失った「姓」を調べ、その人生を探る旅でもありました。私なりの夫婦同姓制度へのささやかな抵抗です。

私の姓は「高橋」ですが、母の結婚前の姓は「橋本」、父方の祖母は「小川」、母方の祖母は「佐藤」でした。「小川」だと知ったのは今年、「佐藤」だと知ったのは去年です。

その中で特に私の心を惹きつけたのは祖母の「小川ハツ」です。ハツおばあさんは私が生まれた時にはすでに故人となっていましたのでどんな人だったのかは知りませんでした。

戸籍を調べようと思いました。ところが樺太で終戦を迎えているので一家の戸籍は失われていました。樺太に住んでいた人の戸籍がなくなっているということをその時初めて知りました。新たに札幌で就籍したのは戦後、1953(昭和28)年でしたが、ハツおばあさんは病気で亡くなっていたのでこの戸籍にハツの名は載っていませんでした。

もうこれ以上は難しいかな思ったのですが、樺太に渡る前に余市町にいたことを思い出し、余市町役場にいくと古い戸籍がありました。うれしかったです。

さて、その戸籍を見ると、ハツおばあさんは1895(明治28)年生れでした。生れたのは熊石町、日本海に面した漁村です。熊石町は合併して現在は八雲町の一部となっています。

戸籍にはハツの父親の記載はありませんでした。非婚の子どもだったのでしょう。でも母親の名前はわかりました。「小川ハナ」です。1862(文久2)年生れです。母子一緒に、ハナの弟で戸主の「吉次郎」の戸籍に入っていました。小川ファミリーは1918年(大正7)年に余市町に移住しています。ハツ23歳、ハナ54歳の時です。

そこまでわかったので八雲町役場に行きました。そこでわかったのは、小川ハナファミリーは、熊石町の前に江差町にいたことがわかりました。江差町から1893(明治26)年に熊石町に引っ越したと思われます。

江差町役場に行ったのですが、戸籍は廃棄処分されていてありませんでした。それより前はわかりませんでした。

以上を整理すると、小川ファミリーはどこから来たのかはわからないけど、1893(明治26)年まで江差町にいて、その年熊石町に移り、そこでハナが32歳の年1895(明治28)年にハツを産み、1918(大正7)年、ハナ55歳、ハツ23歳で余市町に移っていったことになります

ハツは余市に移ったその年、高橋啓蔵、つまり私の祖父と結婚します。そしてやがて1928(昭和3年)か1929(昭和4)年樺太に渡ることになります。父は樺太の恵須取で生まれています。

小川ファミリーについてわかることと言えば、江差町から熊石町、余市町へと日本海を北上したことだけです。でも思い当たることがあります。江差も熊石も余市もニシン漁で栄えたところです。3つの町を移動したことも、ハツが非婚の子であることも、ニシン漁と関係するのではないかと、想像の翼を広げているところです。

にしん街道を北上してみた

2015年12月18日金曜日

シャクシャインはマントを着ていたか? シャクシャイン像建て替えにあたって

「シャクシャインはマントなんか着ていなかったんですよ」-あるアイヌの方が私にいいました。それで思い出したのが「夷酋列像に描かれたアイヌの首長たちもロシアの服とか着ていたなあ」と。そのシャクシャインの像が建て替えられると12月15日付北海道新聞に載っていました。

写真は私が直接撮ったものです。

シャクシャイン像建て替えへ
新ひだかアイヌ協
【新ひだか】新ひだかアイヌ缶(大川勝会長)は、日高管内新ひだか町静内の真歌公圏内にあるシャクシャイン像を建て替える方針を決めた。長年風雨にさらされてひび割れがひどくなったため。同協会をNPO法人化して寄付を募り、来年9月に公園内で開かれるシャクシャイン法要祭までに完成させたい考えだ。
シャクシャインは1669年、アイヌ民族の生活を圧迫した松前藩に抗して決起し、和睦の席で毒殺された民族の英雄。像は強化プラスチック製で高さ3・5㍍、掲げたクワの先端までは4・2㍍。地元の有志が寄付を募って1970年に建立した。デザインは彫刻家の故竹中敏洋さんが手がけ、現在は町が所有している。
民族結束の象徴となってきたが、劣化が著しく、すねの部分には大きなひびが入っている。来年はシャクシャイン法要祭70回目を迎えることから、同協会が節目の年までに建て替えようと決めた。
新たな像はブロンズ製にし、同程度の大きさにしたい考え。現在の像はシャクシャインが渡島管内松前町の方を向いて怒る様子を表現しているが、「いまはアイヌ民族と和人が共存する時代になった」(大川会長)としてデザインの変更も視野に入れている。予算は数千万円程度を見込む。
寄付を受けやすいように、同協会は12月中にもNPO法人化を道に申請する。早ければ来年4月にも認められる貝通し。大川会長は「きれいな像の前でシヤクぶャインの偉業をたたえることができれば」と話している。
「シャクシャイン」という面白い歌があります。お勧めです。→「シャクシャイン」 

2015年12月17日木曜日

釧路市議会広報不掲載 えっまだあるの?!

釧路市議会の議会広報への質疑不掲載については、これまでもコメントしてきましたが、また、新しい問題が出てきたようです、ひどいですね。今日(12月17日)の北海道新聞に出てました。こんなことを許してしまったら、他の自治体の議会にも悪い影響を与えてしまいます。許せません。

釧路市議会の議会広報の質疑不掲載
市長資産訂正も調整
釧路市議会が共産党市議の質疑内容の一部を議会広報に不掲載とするよう調整している問題で、蝦名大也市長の資産公開に記載漏れがあったことを指摘した同党市議の質疑についても不掲載の方向とされていることが分かった。共産党釧路市議会議員団が16日、釧路市役所で記者会見して明らかにした。市議会は21日に会派代表者会議を開き、掲載の可否を協議する。
「アベ政治を許さない」と安倍政権を批判するクリアファイルに関する道教委の調査をめぐる内容に続き不掲載の方針が判明したのは、共産党の松永俊雄氏が4日の本会議で行った一般質問。蝦名市長が自身の後援会から2013年、14年に計1350万円を借り、後援会の政治資金収支報告書に記載されているにもかかわらず、釧路市の条例に基づく蝦名市長の資産公開には記載がないことを指摘した。
蝦名市長は「忘れていた。おわびしたい」と釈明。10日の総務文教委員会でさらに、09-11年にも計1500万円を借り、後日返却したことを明らかにした。蝦名市長は現在、資産報告の訂正手続きを進めている。
松永氏が議会広報にこの質疑内容の掲載を希望したところ、広報の編集にあたる議会広報特別委員会の金安潤子委員長から15日、「議会だよりになじまない。21日の代表者会議で不掲載の方向で話したい」と連絡があったという。
松永氏は会見で「市長は資産公開を訂正中で、市民の知る権利に応える内容。どこが議会広報に適切でないのか理解できない」と批判した。

サンタさんへの手紙 今年はどんな手紙を書くのかな

サンタさんへ
まいにちサンタさんは、たいへんでしょう。
だから、ひまりのおうちには、おいしいおかしがあります。
そのおかしで、パワーをつけてください。
ひまりがほしいプレゼントは、青いバケツのレゴです。
おもちゃやさんにうっているとおもいますので、
よろしくおねがいします。
たのしみにしてます。
ひまりより

「養護学校分校標茶町にぜひ」の記事 実現できればいいなあと思いながら読みました

本日(2015年12月17日)付「しんぶん赤旗」北海道・東北のページを読んで気持ちがあったあかくなりました。そして実現できればいいなあと思いながら読みました。今後もこういう記事を書いてくれること願ってます。

私もかつて函館の盲学校の寄宿舎を視察したことがあり、帰省費補助の問題をとりあげたことがあり、寄宿舎生活の大変さに心を馳せたことがありました。

また、保護者のみなさんの思いが、町長も道議も巻き込み一緒に道教委に要請したというのがすごいですね。そして人口を超える署名というのも。きっと渡邊議員もすごく頑張ったんでしょうね。(残念ながら私は渡邊議員とは面識がないのですが・・・)

それから、標茶高校、日本一広い敷地というのがすごいですね。実は私の父が大野農業高校(北斗市)に赴任していたことがあり、そこでもさまざまな実習施設があったのでですが、それを思い出しました。

標茶町、先月行ったばかりでした。塘路湖などの湿原の湖、牧場の景色、そして一級河川釧路川を満喫。さらに標茶町は、北海道に5つあった集治監のひとつ、釧路集治監があったところ。資料館にも行きました。私は小学生時代、釧路市の小学校に通っていましたが、遠足で塘路湖に行ったこともありました。

なお、標茶(しべちゃ)は、アイヌ語で「シ・ペ・チャ」で「大・川・岸」という意味です。大川とは釧路川のことです。

記事の内容
40キロ離れた学校で寄宿舎生活。子も親も負担大きい・・・養護学校分校 標茶町にぜひ町と連携 保護者の運動広がる署名1万1600、町の人口超す
「障害を持つ子どもたちに身近な地域でゆきとどいた教育を」と北海道標茶町(しべちゃちょう・釧路管内)の標茶高校に釧路養護学校高等部の分校設置を求める運動が広がっています。(北海道・越智朋子)
標茶町の障害を持つ子どもたちは、約40キロ以上離れた釧路養護学校高等部、中標津高等養護学校に進学するしかなく、寄宿舎生活を余儀なくされ、週末ごとに保護者が送迎します。
北海道標茶高校は、高校としては日本一広大な敷地面積があり、総合学科で校内に食肉加工、乳製品加工、製菓・製パンの実習施設、酪農施設などがあります。
「進学は地元で」
分校設置の運動は障害を持つ子どもたちの保護者や支援者でつくる「標茶町手をつなぐ育成会会」を中心に行っています。
同会児童部会部長の金津紫織さんと夫の道博さんは、ダウン症の15歳の息子の来年の高校入学をきっかけに、十勝管内の幕別町に道内で初めて高等学校内に設置された養護学校の分校(2013年設置)があることを知り、「これからの子や親のためにも分校が必要。標茶にも標茶高校がある。生まれ育った町で進学し、社会生活を送ってもらいたい」と他の保護者らに相談し、今年3月に署名に取り組むことにしました。
すぐに25人の会員が賛同し、友人知人たちや町内を個別訪問して署名を呼びかけました。ダウン症の4歳の息子がいる伊藤光子さん、夫の宏さんは「現状や私たちの思いを知ってもらえてよかった。障害者が安心して暮らら」と話しますせる世の中は健常者にとっても過ごしやすい世の中なはずなのでみなさんに考えてもらえたら」と話します。
同会の副会長で次女が障害を持つ、日本共産党の渡邊定之議員は議会で分校設置を求めました。
近隣町村も期待
標茶町に分校ができれば、近隣の弟子屈(てしかが)町、鶴居村、厚岸町などからも「通わせたい」との声も多く寄せられ、署名は町の人口(約8千人)を超える1万1618人分が集まりました。
集まった署名は11日に池田裕二町長、教育長、自民党道議、副議長らと一緒に北海道教育委員会の柴田達夫教育長に要望書と共に手渡しました。
同会代表の橋本志津江さんは「寄宿舎生活は、うまくいく子もいるが精神的に負担が大きい。共働きやシングルマザーも増え、保護者の負担も大きい。標茶高校の充実した施設は、障害を持つ子たちの就労にもつながる技術を学習できます」と分校の設置を求めました。
柴田教育長は「1学年の在籍人数や教員の確保など課題も多いがつながる道もある」と応じました。
会のメンバーは「話を聞いてもらえてよかった。道は、通級指導を推進しているが、高校では、自立につながる専門技術を学んでほしいので分校が必要です」と話しました。
会では、今後も町と連携して、要請活動をさらに広げていきたいとしています。
追記
越智記者さんの当別町の記事もよかったですよ。

追記
標茶町の集治監のことは別な機会に書きたいと思います。

函館市の亀田地区の公共施設統合について一言あり その4 市長が一喝したってホント?!

15日付投稿「函館市の亀田地区の公共施設統合について一言あり その3 きのうの市長の答弁はいただけませんねで私は、亀田地区の統合施設問題を取り上げた紺谷市議の一般質問の中の、議員と市長のやりとりをテープ起こししてお知らせしました。

私と同じところに注目した函館新聞。同じ日付の囲み記事で以下の内容を掲載しておりました。でも、記者と私の見方はずいぶん違っています。

「工藤市長 市議を一喝」とあります。「一喝」とは大声でしかりつけること。たしかにムッとしていたし、強い口調だったし、語気をつよめていました。

しかし、紺谷議員に反論されて、市長はグーの音も出なかったというのがホントのところではないでしょうか。そしてその後、市長はこの問題で発言せず、黙ってしまいましたね。

ぜひ、私の前投稿とこの新聞記事を読み比べてください。
函館市議会亀田地区統合施設の機能強い口調で縮小、廃止否定工藤市長 市議を一喝
函鐙市が市内亀田地区の5公共施設を統合し、亀田福祉センターのある場所に新たに統合施設を整備する計画について、工藤寿樹市長は14日の市議会第4 回定例会一般質問で、施設整備によって機熊が縮小、廃止されるなどと指摘した市議に対し、強い口調で否定する一幕があった。
統合施設は講堂や体育室など5施設の主要機能と亀田支所の窓口業務を集約。市は本年度中に基本計画を策定し、同年度か16年度から設計、20年度からの供用開始を目指している。
一方で、亀田福祉センター内の美原図書室は統合施設に配置せず、中央図書館で借りた図書の返却機能などの存続を検討。同センターの調理室も設置せず、家庭科室を文化開放する学校利用を代替案としている。
紺谷克孝氏(共産党)は「多くが利用する施設を縮小、削減、廃止している提案なので、案が出てきた時点できちんと説明すべき」と指摘。これに対し、同市長は「廃止される機能はない。一つ一つを全て集約するもので、あたかも廃止、縮小するなどと誤解を招かないでいただきたい」と語気を強め、理解を求めた

2015年12月16日水曜日

釧路市議会の広報不掲載問題が北海道新聞の社説でも取り上げられた

釧路市議会の広報不掲載問題について13日に投稿(はんかくさいとしかいいようがない!釧路市議会の広報不掲載問題)しましたが、今日の北海道新聞(12月16日付)の社説でも取り上げられました。その通りだと思います。

プチ疑問 北陸銀行が函館にある理由がわかりました

妻が働いている道南勤医協稜北病院の近く、東山墓園線と産業道路の交差点に北陸銀行があるんですよね。函館に他県の銀行、たとえば青森銀行とかみちのく銀行があるのはわかるんですけど、どうして北陸銀行がと思っていました。

ある本を読んでいて偶然その理由がわかりました。その本は中西聡著『北前船の近代史 海の豪商が遺したもの』(成山堂書店)です。結論から言っちゃうと北前船以降、富山と北海道が密接に結びつき、それが今でも続いているということなんですね。長いけど引用します。

2015年12月15日火曜日

YELL~地方議員は心血そそいでがんばっています どうか注目してください

どこの自治体でも12月は議会が開かれてます。私たちの仲間もそれぞれの地で議案審査に、地方政治のありかたへの提案やあり方をただす一般質問に、陳情・請願への対応、意見書の提案など、町の発展や住民の福祉の発展のために心血をそそいでことと思います。

函館市の亀田地区の公共施設統合について一言あり その3 きのうの市長の答弁はいただけませんね

市長がムッとして発言を議長に求めました。
「(亀田地区の公共施設の統合化について)廃止・縮小うんぬんというようなお話をされていますが、廃止する機能はないですよ。その地区のひとつひとつの地区からはたしかになくなりますが、すべてを集約して、そのすべての中に、すべての機能が入っているわけであたかも廃止するとか、縮小するということはないんじゃないですか。誤解を招かないようにひとつお願いします」
これに紺谷議員が
「(亀田福祉センター内の)美原図書室も、調理室も、(美原老人福祉センターの)お風呂もなくなるんですよ。設置条例も廃止ですよ。これが廃止でなくて何なんですか」 
何だか、質問者と答弁者が逆になったようですね。大間原発の無期限凍結問題では市長はよくがんばっていると思いますが、今回の答弁はいただけませんでした。

以上の実況中継は、函館市議会本会議で紺谷よしたか議員が一般質問で「亀田地区の公共施設の統合化」について取り上げた時の、議員と市長のやりとりの一コマでした。

詳しい会議録ができたらまたお知らせしたいと思います。

参考
函館市の亀田地区の公共施設統合について一言あり その1
函館市の亀田地区の公共施設統合について一言あり その2

月の満ち欠けと関係のない生活をしているなあ

昨夕、きれいな三日月がでていました。函館山の右肩の方に見えました。あんまりきれいだったので夜になってから9時すぎに月見に外にでました。ところが・・・、月がない!もう沈んじゃってたんですね。

アンモナイトは「殻をもったイカ」? もっとも新しい異常巻アンモナイトがみつかった

アンモナイトを素人的にいえば、「殻を持ったイカ」ということになるでしょうか。イカやタコに近い生物で恐竜と同じころに絶滅したんですよね。

去年の夏、三笠市博物館に行きました。巨大なアンモナイトの化石が所狭しと並んでいました。壮観でした。写真には人も写っているのでアンモナイトがどれくらい大きいかわかると思います。

2015年12月14日月曜日

函館市中央図書館から返事がきました

昨日付ブログで「函館中央図書館への要望があります」を投稿しました。そのまま図書館に要望のメールをしたのですが、今日、返事をいただきました。ありがとうございます。

2015年12月13日日曜日

はんかくさいとしかいいようがない!釧路市議会の広報不掲載問題

子どもの頃、母は私たち兄弟を叱るとき、よく「はんかくさいっ!」っていったもんです。この言葉を標準語に直したらどうなるのでしょうか。「ホントこのバカな子はっ!」という感じでしょうか。標準語ではなかなかニュアンスを伝えられない。

標準語への翻訳は難しいのですが、この言葉の雰囲気に近いのはあれです。あれというのは海援隊が昔歌っていた『母に捧げるバラード』、もう若い人はわからないと思いますが、あの歌の語りの部分です。
コラ!!テツヤ、何ばあんたしようとかいな、あんた。はよう、大学へ行ってこんね、大学へいってあんた、学問ばしてこんね、あんた。毎日、テレーとしてから。近所の人からおまえ、いつも、何て言われおっか、わかっとっとね。武田のバカ息子、バカ息子って、噂されおっとよ。
さて、何が「はんかくさい」のか。今日の北海道新聞に出ていたこの記事です。

函館中央図書館への要望があります

最近、読書をする時間が持てるようになり、また、調べ物をすることも多くなり、函館の中央図書館や美原図書室をよく利用して、本を借りるようになりました。私がいいなと思うのは、①職員の方々がとても親切でイヤな思いをすることがないこと、②ネットで予約することができること、③孫の本を借りるときにともしび号が便利なこと、④美原図書室は蔵書数こそ少ないのですが、近くなので利用しますし、中央図書館で借りた本を美原図書室で返せることが便利です。
以下は要望です。

アタマジラミのDNAが明らかにした人類の足取り

孫のひまりの学校で今年も「あたまじらみ」が発生しました。学童保育所に迎えに行くと子どもたちはみんな頭に網目の細かい紙のようなものでできた「帽子」をかぶっていました。そういう対処があって、その「あたまじらみ」も終息したんですか、チップ・ウォルター著「人類進化700万年の物語 私たちだけがなぜ生き残れたのか」(青土社、2014年)に「アタマジラミ」のDNA研究ですごいことがわかると書かれていました。

2015年12月12日土曜日

「花燃ゆ」を見て-西南戦争での捕縛された士族の扱い 群馬と北海道

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」も最終盤に入っていますが、第46話を見て感心してしまいました。

吉田松陰の友人であり、松陰の妹の美和(井上真央)の義兄である楫取(下の名前忘れました、大沢たかお)は、群馬の県令になっていました。

第46話では、明治政府は西南戦争で捕縛された国事犯を各都道府県に労役として就かせるという知らせが届き群馬でも87名の国事犯を受け入れることに。

2015年12月11日金曜日

心の自由は誰も奪えない 小川洋子という作家

図書館や書店をうろうろしながら、背表紙のタイトルで小説を選び読むことがあります。その小説が心にしみて「この作家いいなあ」とファンになることも。

小川洋子の小説を私は一編も読んだことがありませんがファンになってしまいそうです。この作家の名前は知っていました。芥川賞受賞作の『妊娠カレンダー』の前で足を止め、買おうかどうかちょっと考えて、「やっぱりやめよう」となったことが、まだ若いころ、2度か3度ありましたから。

今回(今回といっても11月29日付ですから半時ほど前なのですが)、彼女が「しんぶん赤旗」日曜版の「ひと」欄に登場しました。そこで語っている印象的なことを3か所紹介します。

北海道博物館「夷酋列像展」について

北海道博物館で「夷酋列像展」が、9月5日から11月8日まで開催されました。主催者の一員である北海道新聞社がこの「夷酋列像展」のキャンペーンを行ない、3万人以上が入場したそうです。

私も札幌に行ったときに友人と一緒に見てきました。道新の広告や「夷酋列像展」のリーフレットには次のような説明があります。

2015年12月10日木曜日

ラスベガスはスペイン語

うちの近所(函館市昭和3丁目)に巨大なパチンコ屋がいつの間にかできていました。「Vegas Vegas」です。

「ベガス、ベガス・・・、ラスベガス」と口の中で言葉を転がしてみます。「ラス・ベガス」、「ラスはLas?女性定冠詞の複数形?」、「ベガスはベガの複数形?」、スペイン語?、スペイン語初心者の胸がときめきます。

調べてみると、「Vega」は「沃野」という意味。ラスベガスって砂漠じゃなかったっけ。これも調べてみたら、ラスベガスは砂漠の中のオアシスだったそうです。一件落着です。

ラスベガスはギャンブルのまちなので、パチンコ屋さんの名前にしたんでしょうね。

2015年12月8日火曜日

ひまりまた大泣き!

家に帰ってくるなり、「おじいちゃんっ」とひとこと言うなり大粒の涙を流しながら、ひくっひくっとしゃくりあげる小学2年生のひまり。

「ぼうしとマフラーがなくなった」と。教室の中もさがしたし、落とし物コーナーも見にいったけどなかったという。マフラーはおとといおかあさんに買ってもらったお気に入りらしい。

地雷を踏んでしまった! ひまり激怒

きのうのこと、ひまりの宿題は九九の暗唱。「さんいちがさん、さんにがろく・・・」、何とか三の段をつっかえつっかえ唱えたひまり。

「こんどは、つっかえないように、もう一回やろう」と言ったら、「ひまり、やりたくなーいっ!」と反抗。「くりかえしやったらできるよ」と励ましたつもりが逆効果。「だってできないし。先生も1日1回でいいといったも」と。吠えるように大泣きしながら、ソファの上でのたうち回っているひまり。

まいったなあ。「孫の心、じいちゃん知らず」か? 孫育てはむずかしいのです。

2015年12月3日木曜日

函館市の亀田地区の公共施設統合について一言あり その2

私は私自身の投稿「函館市の亀田地区の公共施設統合について一言あり」で今回の計画は「亀田地区公共施設いっせい廃止計画」となっているのではないか」と述べ賛成しかねると書きました。
→「函館市の亀田地区の公共施設統合について一言あり その1

日本共産党の地域新聞「道南新報」でも「時の焦点 亀田地区統合施設整備問題」として連載しています。私の意見とも重なるところがありますが、特に統合施設の1階に「行政機構を入れること」を疑問視し、論を展開しています。今回はその内容を紹介したいと思います。
1.「行政機構」の移入は本来の社会教育・福祉施設の充実を後退

スイングバイするはやぶさ2 私もスイングバイしたい

「しんぶん赤旗」は政党機関紙ですが、科学技術やヒトの歴史や文化の記事が充実していると思います。

今日(12月3日)付には「小惑星探査機「はやぶさ2」今夜、接近」「リュウグウへ針路を取れ」「18年到達目指す 地球の重力生かし加速」という見出しで記事が掲載されています。
小惑星リュウグウへ針路を取れ-探査機「はやぶさ2」は日本時間の3日午後7時すぎ、太平洋上空を通過し、地球の重力を利用した「スイングバイ」によって目的地の小惑星リュウグウへ向かう軌道に入ります。
いつか見た宇宙物のテレビ番組で私は「スイングバイ」ということを知りました。うろ覚えですが、惑星の重力を利用して、宇宙船を加速させたり減速させたりすること だったと記憶しています。

「スイングバイ」って使ってみたいいい言葉だと思います。国民運動も、日本共産党も、スイングバイして加速してほしいなと思います。そして私も・・・。

びっくりポン!

「まれ」が終わってホッとしてしまい、NHKの朝ドラ「あさが来た」は、ビデオ録画だけしてどんどんたまってしまいました。録画可能時間が少なくなってしまい、私も「どれどれ」と見はじめました。

驚きのことばは、これまでもあまちゃんの「じぇじぇじぇ!」や、花子の「てっ!」がありましたが、今回は「びっくりポンや!」ですね。「びっくりポン」が出てくるたびに楽しくなってきます。

わが北美原町会の来年の新年会の役員合唱は、「あさが来る」の主題歌です。

名詞の性が5つもあるって!

私の11月1日付投稿「男性名詞、女性名詞、中性名詞ってなに?」では、名詞の性の意味について考えてみました。その時に、「さて、名詞の「性」については、さらに面白いことを発見したので、別の機会にお知らせすることにします」と書きました。
男性名詞、女性名詞、中性名詞ってなに?

それは名詞の性の数についてです。「ウィキペディア」で調べてみるとこんなことが・・・
性(文法)

2015年12月2日水曜日

二人称代名詞を使えない臆病な自分

二人称代名詞と言えば、「おまえ」とか「あなた」とか「きみ」とか日本語にはたくさんあるけれど、私は、だれかと会話をするときに、二人称代名詞を使うことができない。だから、相手の名前で呼ぶことになる。困るのは相手の名前を知らないとき。適当にごまかすけど・・・

どうしてそうなのかとたまに考えるときがある。日本語には二人称代名詞がありすぎて、どのことばを使っても、相手への評価が含まれると思ってしまうからではないか。相手を下に見ているのではないかなどとと感じ、臆病になってしまう。

英語の「YOU」みたく一種類だと悩まなくていいんだけど・・・。

函館の夜景について私と同じことを考える人がいるんだなあ

「函館の夜景は第4位?」というブログを10月31日付で投稿したのですが、今日新聞を整理していたら、10月23日付北海道新聞の道南版に、「「新三大夜景」に疑問」というコラムが載っていることを発見。私にとっては「わが意を得たり!」です。もっと早く読んでおけばよかった。私と同じようなことを考える人がいて嬉しいです。以下記事を紹介します。
夜景鑑定士が選ぶ「日本新三大夜景都市」に札幌が入る代わり、函館が落選したというニュースを聞き、最初は「そんな見方もあるのか」と思うだけだったが、選考方法を知るにつけ疑問が膨らんできた。
鑑定士1人が5カ所の夜景地を選び、その所在自治体を集計する方法では、単純に夜景地の数が多い都市が有利になる。札幌は藻岩山、大倉山展望台から、JRタワー展望室、さっぽろテレビ塔、大通公園のホワイトイルミネーションに至るまで票を集めて2位に入ったのに対し、函館は函館山に投票が集中し4位にとどまったという。
函館山は、香港のビクトリアピーク、イタリア・ナポリのポジリポの丘と並んで「世界三大夜景」と呼ばれることも多い定番夜景地だ。七飯町の城岱牧場から眺める函館の裏夜景も素晴らしいと評判だが、函館市内となると、地形の関係もあり、ほかの夜景地の名は浮かんでこない。
数も一つの物差しと言えばそれまでだが、函館山という夜景地単体の魅力の大きさが選考に反映されず、結果的に函館の夜景のブランドカが下がったかに思われてしまうのが残念でならない。