2011年2月16日水曜日

清野清さんのこと

私たちの大先輩である清野清さんが逝去されました。2月15日にお別れする会が行なわれました。会の代表をつとめることになった私のあいさつを紹介します。

清野清さんとお別れする会 代表あいさつ 
日本共産党函館地区委員会 
委員長 高橋佳大 

本日は、お寒い中、清野清さんとお別れする会にご参列いただき、ありがとうございます。また、過分なお花やご香料をいただき、心から御礼を申し上げます。

私は、会の代表を仰せつかった日本共産党函館地区委員長の高橋佳大と申します。清野清さんは、日本共産党函館地区委員長、道南地区委員長を歴任し、衆議院北海道3区から8回立候補しました。長きにわたって日本共産党の顔として活動されてきた清野さんの経歴から、後輩として函館地区委員会の責任者をしております私が、若輩ではありますが代表をつとめることになりました。どうぞよろしくお願いいたします。

清野さんの闘病の経過ですが、清野さんは、2008年6月11日、滞在していた東京のホテルで倒れ、警察病院に搬送されました。診断は結腸ガンと肝臓ガンの疑いでした。19日に手術を受けました。


清野さんは術後、車イスで東京から函館に帰ってきました。医師は、飛行機に乗ることを心配して、気圧の関係で病気が悪化して飛行機の床に寝てしまうことになっても帰りたいですかと聞いたそうです。それでも帰りたいと清野さんは答え帰ってきました。奥様のきみさんが先に函館に戻り、稜北病院の犬童先生に相談し、国立病院を受入病院に決めたとのことでした。それから清野さんは入退院を繰り返します。

健康によいことはすべてやるという強い意志で清野さんは闘病生活を送ります。太極拳を行ない、温泉に通い、食べるものもヨーグルト、チーズ、ギャバ茶などに徹底して切り換えてやってきたといいます。

しかし昨年暮れから身体が衰弱し、1月12日の入院が最後の入院となりました。体中に斑点ができて消えなくなりました。まぶたも腫れていました。肝臓が機能しなくなっていたとのことです。しかし意識はしっかりあり、清野さんは『忌まわしき点滴よ』というメモ書きを残しています。強い意志で闘病してきた清野さんはこの点滴さえはずれればまた退院できると考えていたようです。しかし清野さんにも最期の時がやってきました。

看病をしているきみさんが病院から夜帰る時は、手を握って、そしてお互いに手を振ってそれから自宅に帰っていたそうです。しかし清野さんは、2月7日夜、手をだす気力がなかったそうです。そして何かいいたげにしていたようです。「早く帰りなさい」と言いたかったのではないかと、きみさんはそのときのことを振り返っています。きみさんは一度は帰宅しました。国立病院の看護師さんから「呼吸が荒いので奥さんどうしますか」電話がきました。きみさんはまた病院にかけつけましたが、2月8日0時2分、清野清さんは満83歳で帰らぬ人となり、その生涯を閉じることになりました。

ここで、清野清さんを偲んで黙祷を行ないますので、みなさまどうぞご起立ください。黙祷をはじめます。………黙祷を終わります。ご着席ください。


清野清さんの経歴については、みなさまのお手元のしおりに詳しく紹介をしておりますが、あらためまして駆け足で清野さんの足跡を、清野さんの一人称での回想をまじえて紹介したいと思います。

1927年(昭和2年)8月31日、弘前市で出生。生後8ヶ月で函館市高盛町に移住、私の兄や姉は全部で11人。私は11番目。親子ほども年齢が違う兄弟であったとのことです。

1941年(昭和16年)旧制道立函館中学入学。1945年(昭和20年)盛岡工業専門学校第一機械科に入学。戦後のもっとも混乱していた時期でしたが、ここで社会科学研究会の活動をします。

1948年(昭和23年)函館水産高校に赴任。1949年(昭和24年)1月、日本共産党に入党。10数人の教員党員の集まりに誘われ入党をすすめられた。私は、社会主義を学んだものの必然の結果として入党することは当然であるということと、兄弟の中で私だけが受けた専門教育を労働者階級の開放のために生かすことに生涯をかけてもいいと決意して、その場で入党の決意をのべ、それを認められたと回想しています。

同年北教組函館支部常任執行委員に選出されますが11月24日、レッドパージをされ、翌1950年同じくパージされた宮野千秋さんと謄写印刷業をすることになりました。この時がもっとも困難な時期だったのではないでしょうか。

1951年(昭和26年)きみさんと結婚されました。その時のことを清野さんは次のように振り返っています。昭和23年の函館では、小・中・高・大学の教員が民主主義教育をどう推進するか、激しい討論と学習が繰り返されていた。これらの集会のなかに、必ず参加していて、控え目でいながら男性の中にまじって発言するときには臆せず理路整然とのべる眼の印象的な女性がいつも目立っていた。この女性が妻の“きみ”である。

1952年~56年、日本共産党常任活動家。52年函館地方労働組合会議常任委員、函館合同労組委員長、函館民主青年団長を歴任され、1956年~61年数学塾を経営されています。

1961年(昭和36年)日本共産党常任活動家としての活動を再開します。わが党も全力をあげて(安保闘争)の歴史的なたたかいにとりくんだ。その中で全国的にとりくまれた党員倍加運動では道南地区は2.3倍以上になって成功し、常任活動家を再び増員できるようになったと回想しています。

その後、1961年~65年函館地区委員長、65年~66年道南地区委員長、67年~86年道南地区副委員長、63年道委員を歴任、特に、1963年から1983年まで、衆院北海道3区に8回立候補しています。1980年の選挙では37980票を獲得、共産党の北海道3区、小選挙区8区の得票では、清野さんのこの得票を超えた候補者はまだいません。また83年函館市長選挙にも立候補しました。

その後、清野さんは、北海道委員会勤務、札幌での単身赴任でしたが、何にでも挑戦する清野さん、料理にも挑戦して上手になったとのことです。88年には埼玉県委員会勤務、埼玉大学に赴任されていた妻きみさんといっしょに暮らすことができました。また東京のお二人の息子さんとその家族、お孫さんたちとも近くで、楽しく過ごされていたようです。またこの時期、若い時期には忙しくてとれなかった運転免許を取得しています。勇退後1998年道委員会顧問、2000年~2007年道委員会名誉役員となられました。

御遺族は、奥様のきみさん、北海道教育大学名誉教授、埼玉大学名誉教授でいらっしゃいます。ご長男のひろしさん専門学校の講師をされています。次男のたかしさんは通信関係のエンジニアをされています。そしてそれぞれに2人ずつのお孫さんがいらっしゃいます。 先日息子さんたちにお父さんとしての清野清さんのことを伺いました。8回も選挙にでて、さぞかし大変な思いをされたのではなかろうかと思っていたのですが、ひろしさんは、他のおとうさんが鉄工所に働いているようにひとつの職業としてみていた、たかしさんは、ぼくは目立つのがすきなのでいい方に考えていたとおっしゃっていました。また清野さんは外でも家でもかわらず落ち着いていて、騒がない人だった、あまり家にいることができなかったのですが、休みの日には自転車の前と後ろに乗せてもらい飛行場まで行くなど、お父さんとして家族とつきあえるだけのことはしてもらったとも語られていました。

奥様のきみさんからものちほど御遺族を代表してのごあいさつがありますが、清野清さんに寄せていただいたご厚情と変わらぬご厚情を御遺族に賜りますようお願いを申しあげます。

清野さんが亡くなったことを聞いて「これで私の青春時代が終わった」と感慨深げに語った方がいらっしゃいました。この道南で活動してきた人たちにとって、清野清さんは。それだけ存在感があり、偉大な人だったと思います。私もまた清野清さんの遺志をうけつぎ、政治革新のために力を尽くす決意です。清野清さんを偲び、思い出を今日は存分に語っていただけますよう心から申しあげまして、清野清さんとお別れする会の代表としての御挨拶といたします。本日は誠にありがとうございます。 
以上

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