2017年1月23日月曜日

「ら抜き言葉」について考える

何年も前のことだったのですが、うちの事務所の若者が、小規模なある集会で報告することがありました。話が終わってから年配の方が若者に「『見れる』は『ら抜き言葉』と言って間違いなので注意した方がいいですよ」と言ったんですが、私は口を挟まなかったんですが、ちょっと嫌な感じできいていました。

さて、その「ら抜き言葉」のことが、昨年9月22日付北海道新聞に載っていました。その内容は次の通りです。
「ら抜き言葉」のうち「見れる」「出れる」と言う人の割合が「見られる」「出られる」と言う人を上回ったことが(9月)21日、文化庁の2015年度「国語に関する世論調査」で分かった。1995年度に調査を始めて以来、複数の「ら抜き言葉」の浸透度合いを定期的に尋ねているが、「ら抜き言葉」を使う人が多数派になったのは初めて。
あわせて、北海道の人は「ら抜き言葉」使う人の割合がもっと高いことも書いていました。




さて、この調査結果を受けて、同じく北海道新聞のこども新聞12月31日付で次のようなことが書かれていました。
「見れる」「出れる」というような言葉は、「ら」の字が抜けているため「ら抜き言葉」とよばれ、まちがった日本語の使い方とされています。
言葉は時代の移り変わりによって、その意味や使い方も変わっていきます。ら抜き言葉も、「正しくない日本語」だとされていますが、言いやすさもあって、だんだんと社会に受け入れられてきているようです。
そのうち正しい日本語として教科書にのる日が来るかもしれませんね。














ここで考えてみたいことは2つあります。

1.「ら抜き言葉」は本当に正しい日本語ではないのか。
2.「ら抜き言葉」が多数派になったのは、単に「言いやすさ」のためなのか。

このことに解答を与えているのが本多勝一著『実戦・日本語の作文技術』(朝日文庫・1994年)で、私も若いころ読んで「なるほど」と思ったものです。ちょっと長いですが引用します。
(前略)すなわち、「見られる」を「見れる」、「食べられる」を「食べれる」といった「ら抜き言葉」で話したり書いたりすることについて、文化庁国語課は「従来は文法上誤った用法とされてきた」(同紙)と言っている。つまり「ら抜き」が「乱れた言葉」なのだ。
嘆息とともに怒りさえ覚えるこの感覚。そもそも「ら抜き」とは何だ。私(いや俺)に言わせれば、「見れる」こそ正しいのであって、「見られる」などは「ら入り言葉」として乱れた欠陥品である。なぜか。
再びわが伊那弁の日本語で説明しよう。「見られる」と「見れる」は全く別の言葉であって、クモとクモが異るように両者は厳密に区別されている。つまり「見られる」は受け身であって可能の意味はなく、「見れる」は可能だけであって受け身の意味はない。ところが東京弁の「見られる」は、受け身と可能の双方を意味するから区別がつかず、それだけあいまいであり、区別のためには前後の文脈で考えるほかはない。「ボクは見られる」だけで、可能か受け身かを区別することはできないのだ。しかし伊那弁だと「オレは見られる」とすれば受け身だけ、「オレは見れる」なら可能だけを意味する。なんと論理的日本語ではなかろうか。いったいどちらが「乱れて」いるのか。
この「論理的日本語」は、伊那弁だけでは決してない。この「ら抜き」が「気にならない人」に地域差があって、「北海道や北陸地方で70%を超えたのに対し、関東地方では50%を切る」(同紙)のである。当たり前だ。「ら入り」の方が「乱れて」いて気になる地域では「ら抜き」が正しいのだから。俺なんかも可能のとき「見られる」などと言ったらクツバッコイ(こそばゆい・くすぐったい)感じがして恥ずかしいくらいだ。文化庁や総理府はこんな背景について無知なのだろうか。この記事にもこうした背景の反映はなく、談話としては「文部省の国語審議会委員で歌人」の次のような言葉がある。
「ら抜き言葉が気にならない人が、これほど多いとは思わなかった。(中略)文法があって日本語が作られたのではなく、日本語を観察して作ったのが文法であり、変わっていくのは自然の流れです。」
このような論評では、一方的かつ差別的な正しい文法」が強引に決められていて、それが変化してゆくという中央集権的·帝国主義的価値観の裏返しにすぎず、「ら抜き」など一地域語にすぎぬという相対的認識が全く欠如している。
さきほど、「ら抜き言葉」は本当に正しい日本語ではないのかと書きましたが、「ら抜き言葉」は「正しい標準語」ではないが「正しい日本語」だということになります。地域語(方言)も日本語だからです。しかも「ら抜き言葉」の方が、「受け身」と「可能」の意味をはっきり区別して明快だということにもなります。

「ら抜き言葉」が多数派になっているのは、その明快さが、あいまいな標準語よりすぐれているからではないでしょうか。教科書に正しいとして「ら抜き言葉」がのるとしたら、このことについて地域語の標準語に対する勝利を意味するのではないでしょうか。

追記(2017.05.11)
先日放送大学の「日本語概説」という番組の「第5回日本語の文とその構造」というのを見ていたら「ら抜き言葉」について触れられていました。講師は東京大学大学院教授の月本雅幸という先生だったのですが、「ら抜き言葉」を文法的に解説していました。簡単に言うと「書く」と「書ける」の関係と「受ける」「受けれる」の関係は同じだ説明し、チクッと「ら抜き言葉」を避ける状況を批判していました。以下はこの講義の「ら抜き言葉」の部分の内容です。


一段活用動詞、か行変格活用動詞「来る」は、「れる」「られる」を付加することで可能を表しますが、「打つ」「読む」「書く」等の五段活用動詞では、「打てる」「読める」「書ける」等のいわゆる可能動詞で可能を表します。ご覧ください。「君にプロ投手の球が打てるか」「君がプロ投手の球が打てるか」「君がプロ投手の球を打てるか」。また、さ行変格活用動詞「する」の可能文は「できる」で代用します。
さて先に一段動詞とか行変格活用動詞では「れる」「られる」で可能を表すと述べましたが、話し言葉で一般化しつつあるいわゆる「ら抜き言葉」は、一段動詞とか行変格活用動詞の可能を表す形式とみることができます。ら抜き言葉の例を見てみましょう。「君にプロ投手の球が受けれるか」、これを形態音、すなわち動詞の形の分析から見れば可能動詞と「ら抜き言葉」は、下にありますように分析できます。 
すなわち「書く」に「eru」という形をつけたものが「書ける」という可能動詞、「受ける」に「reru」という形をつけたものが「受けれる」という「ら抜き言葉」です。このように「ら抜き言葉」は、語幹に「eru」「reru」という形態素、あるいは助動詞が付加されたものとして分析することができるわけです。つまり両者は同じものと言ってもいいのです。
しかし、現在のところ公共的な場面での書き言葉や放送の言葉としては「ら抜き言葉」は規範的ではないとして避けられる傾向にあります。

0 件のコメント:

コメントを投稿