2015年10月12日月曜日

網走監獄と宮本顕治


9月27日「博物館 網走監獄」に行ってきました。




とにかく広いのです。
監獄のテーマパークです。
とても1時間くらいでは見切れないので、駆け足で見学してきました。









































網走刑務所には、私が所属する日本共産党の元議長、宮本顕治氏(故人)が収監されていました。館内に展示されている監獄年表。「昭和20年(1945年)共産党幹部宮本顕治、巣鴨刑務所より網走刑務所に移される」と書かれています。



























戦前、日本共産党は主権在民の実現することや侵略戦争にやめることなどを掲げて活動をしましたが、これらの活動は当時、合法的には行なうことができず、非合法活動を余儀なくされ、検挙されれば重罪を課せられる、そんな世の中でした。

戦争に反対し、民主主義を唱えること自体を重く罰するような世の中に絶対してはならないと思うのです。

宮本顕治氏は、1933年、25歳の時に検挙され、1944年に無期懲役の判決を受け、1945年5月に大審院上告が棄却、刑が確定し、網走に送られることになりました。

宮本顕治氏は、最終陳述で格調高く次のように述べています。

「私は当裁判所がかかる基本的虚構と悪意ある推定に立脚する公訴事実は、決して維持是認しないであろうとは確信しているが、さらに社会進化と人類的正義に立脚する歴史の法廷は、我々がかくのごとく迫害され罰せらるべきものではなかったこと、いわんや事実上生命刑に等しい長期投獄によって加罰される事は大きな過誤であったという事を立証するであろうと信ず」。

網走刑務所の生活について宮本顕治氏は『網走の覚書』という本を書いています。以下、その引用になります。

「網走の駅に着いたのは夜半だった。六月も二十日に近いというのに、夜気はするどく冷たかつた。駅前の小さい寝しずまった家並み。でこぼこで歩きにくい夜道。まもなくたんぽつづきとなった。ときどき立ちどまり重いトランクの肩をゆるめたりして、小一時間歩くと濠をめぐらした刑務所の塀が現われた。小橋を渡ると、大きな鉄の正門。刑務所独特の広い陰気な建物が山裾に沈んでいた。」

「小橋を渡る」というのはこの鏡橋のことかと思います。





















「その夜、刑務所の暗い廊下を突きあたった一番左の端の監房に私は入れられたが、一応「近代的」な鉄筋コンクリートの巣鴨にくらべると、これは、いかにも明治年代にできたままの牢屋の感じだった。畳もなく、うすぺりが敷いてあるきりで、窓は高く、便器が片隅にあり、廊下に面した側は、太い角材の柱がすいたまま並んでいた。例によって、小さい薄い敷きぷとんと、一枚の綿の堅い掛けぶとんが片隅においてあった」。

刑務所の暗い廊下を突きあたった一番左の端の監房









窓は高く、便器が片隅にあり、廊下に面した側は、太い角材の柱がすいたまま並んでい

























「私はこの監房に九月末ごろまでいた。はじめは厳正独居というのか、入浴も一人きりで行かせられた。新しい警察の留置場や刑務所にはいった当座は、様子がよく分からず、しかも独居房ではすぐに聞き出すことはできないので多少手間はかかるが、だんだん「内部」の事情が分かってきた。ことに私の監房は、扇形に放射状になった建物の一つのその突端にあったので、鉄扉を出入りしたり、窓の外を通る懲役囚の断片的な話し声も耳にはいった。看守のいる机からは一番遠いので、雑役との話のやりとりにも好都合だった。」
















やがて戦争が終わり、宮本顕治氏は解放されることになります。「午後四時、監獄の通路の鉄の扉をいくつか通り抜けて正門に出て、最後の重い鉄扉がギシギシと音をたててひらかれた。私は十二年ぶりに手錠なしに、はじめて監獄の外に立った」「・・・夜はもう寒く、汽車の中はうすぐらかったが、私は未来へのさまざまなみちあふれる思いに包まれて窓から遠ざかってゆく網走の町の灯をながめていた」。

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