2015年12月26日土曜日

箱館付けの村々のこと 「五稜郭の戦い 蝦夷地の終焉」その3

菊池勇夫著「五稜郭の戦い 蝦夷地の終焉」(吉川弘文館)を読み進めています。「幕末函館の都市景観」というところなんですが、興味深くひきこまれていきます。もっとも函館の人間でなければわからないかもしれませんが・・・・・・。またまたつまみ食い的紹介を――。

1860年に刊行された「官許箱館全図」という地図の説明の中で、「亀田」が「箱館」より栄えていて役所も亀田におかれていたとのこと。

亀田市は1973年に函館市に編入されていますが、「箱館」より栄えていたんですね。
亀田市の地名の由来については私のブログに書いたことあります。
「亀田市と千歳市 「鶴は千年、亀は万年」つながりの姉妹都市

五稜郭の戦いの舞台となった箱館周辺の村のことについても説明があります。
箱館付きの村は歴史的に3つに分けられる。
「箱館付き」の「付き」とはどういう意味なんでしょうか。「付近」という意味かな?さてその3つですが
従来からの松前地(和人地)と
寛政12年(1800)「村並(むらなみ)」(松前地化)になった恵山から内浦湾(噴火湾)にかけての「6か場所」と呼んだ沿岸地帯の村と
元治元年(1864)村並になった山越内(ヤムクシナイ)・長万部(ヲシャマンベ)両村
旧幕府軍上陸の地、鷲の木や土方歳三が進んだ鹿部・川汲は「六か場所」にあたります。

実は以前、八雲に行く途中こんなのを発見したんです。蝦夷地・和人地の境跡と書いてあります。


横から見ると「野田追場所と遊楽部場所の境であったこの所は、享和元年(1801)に小安、戸井、尻岸内、尾札部、茅部、野田追の六箇場所が村並になったのにともなって定められた江戸時代の蝦夷地と和人地の境です」と書かれています。

その後、八雲や長万部も1864年に和人地になったということですね。
なお、この看板(?)は、別の投稿でも紹介しました。
川と川の名前を知りたい理由

0 件のコメント:

コメントを投稿