2015年12月28日月曜日

五稜郭の戦いの始まり 「五稜郭の戦い 蝦夷地の終焉」その5

菊池勇夫著『五稜郭の戦い-蝦夷地の終焉』を読み進めて、いよいよ「五稜郭の戦いの始まり」まできました。

ここで私が面白く読んだのは、当時の亀田地域のことが載っているところです。函館市は何度かの合併を経て現在の函館市になっています。温川町(1939年)、銭亀沢村(1966年)、亀田市(1973年)、戸井町、恵山町、椴法華村、南茅部町(以上2004年)の順となっています。

私は旧亀田市地域に住んでいるので、亀田の地名が出てくると何度も繰り返し読んでしまいます。亀田にはもともと6つの村がありました。桔梗村、亀田村、石川村、赤川村、神山村、鍛冶村です。

私の住んでいるのは北美原という地域なのですが、住所表記が変わる前は亀田中野町といいました。もともとは中野町だったのでしょう。旧函館市にも中野町があったので、混同することを避けて亀田中野となったのだと思います。

その中野町は、石川村だったのか、赤川村だったのか、おそらく石川村だったのだと思います。わが家の近くを流れる中野川にはこんな看板があります。

渡島地方南部は南半分が平地、北半分が丘陵山間地である。地名は南部の平地が先に開けた石川地区と赤川地区の間に位置していることから、中野となったと考えられ、この地に流れている川を中野川とよぶようになった。
さて話は「五稜郭の戦い」に戻るのですが、五稜郭の戦い(箱館戦争)の戦闘は峠下(現在の七飯町の一部)で始まりました。新政府軍側は旧幕府軍側に敗退していきます。大野村でも敗退し、その中ではぐれてしまった人が、中村雅之進という人。以下、本文を引用します。
中村は、まず石川村の方へ行き、民家に寄って朝飯を食べる。主人が懇ろに介抱してくれたが、この村には「賊」が多く通行しているというので、
いったい石川のどのへんだったのでしょう。石川町会は歴史を大切にしている人たちなのであるいは知っている人がいるかもしれませんね。さて続きです。
東の方へ向かい、畑、林の中を経て滝ノ沢へ着く。
石川から滝ノ沢までどのようにたどりついたのでしょう。石川から赤川へ、さらに現在の陣川の丘に入ったのでしょうか。そして東山、山の手、日吉を経て滝ノ沢にたどりついたとか想像しています。さらに続きます。
人に逢うことを恐れ、山上・樵路のみを経過した。・・・やがて炭小屋があり・・・・・・
「樵」というのはきこりですから、樵路は林道ですね。滝ノ沢からどこの山に入ったのでしょうか。興味深いですが、よくわかりません。 この中村は助かったとのことですが、いまから150年以上も前に、私が住んでいる地域を舞台にこういうことがあったんだなあと不思議な気分になります。

0 件のコメント:

コメントを投稿