2015年12月16日水曜日

プチ疑問 北陸銀行が函館にある理由がわかりました

妻が働いている道南勤医協稜北病院の近く、東山墓園線と産業道路の交差点に北陸銀行があるんですよね。函館に他県の銀行、たとえば青森銀行とかみちのく銀行があるのはわかるんですけど、どうして北陸銀行がと思っていました。

ある本を読んでいて偶然その理由がわかりました。その本は中西聡著『北前船の近代史 海の豪商が遺したもの』(成山堂書店)です。結論から言っちゃうと北前船以降、富山と北海道が密接に結びつき、それが今でも続いているということなんですね。長いけど引用します。
富山県の銀行の北海道進出
富山県の北前船主は、民業と漁業の面で北海道と富山県を結びつける役割を果たしたが、富山県内では銀行設立の担い手にもなった。明治初年に明治新政府は、新たな商品流通機構として主要拠点に通称会社・為替会社を設立させ、北陸では金沢に為替会社が設立された。この金沢為替会社の出資と経営の担い手となったのが、江戸時代からの有力な北前船主で、1877年に金沢で第十二国立銀行が誕生した際も、金沢為替会社経営を担った北前船主らが出資と経営の主な担い手となった。金沢第十二国立銀行は、その後富山の第百二十三銀行と合併し、富山に本店を置く第十二国立銀行となった。
富山移転後の第十二国立銀行は、富山の売薬業者らが経営の主な担い手となったが、富山県と北海道が物流と人の移住で深いつながりがあったことから、積極的に北海道へ支店を開設した。・・・第十二国立銀行は1897年に十二銀行と改称したが、99年10月に最初の北海道内支店を小樽に開設し、その後北海道内では、札幌・旭川・函館など農業や漁業に関連のある拠点に順次店舗網を拡大し、1921年時点で9ヶ所、31(昭和6)年時点で17ケ所の北海道内支店を持つに至った
明治以降の北海道では、開拓の進展とともに東京の都市銀行の出店が相次いだが、東京以外では富山県の銀行の出店が目立ち、特に十二銀行は1921年時点では、道外本店普通銀行として東京の第一銀行に次ぐ北海道の支店預金額と貸出額を示していた。十二銀行に続いて富山県では第四十七銀行が1907年に小樽に支店を開設したが、1890年代から同行の頭取を東岩瀬の北前船主の森正太郎が務めており、その関係もあって同行は早くから北海道へ進出した。その他、中越銀行、砺波銀行、高岡銀行などが北海道へ支店を開設したが、中越銀行は農村部の地主層を中心として設立され、1912年に小樽に支店を設け、25年に旭川支店、26年に深川出張所をそれぞれ開設した。
一方、砺波銀行は、砺波郡の絹織物業への金融を目的として設立されたが、1918年の野村銀行との合併で規模が大きくなり、漁業関係者とのつながりから21年に北海道の森に支店を開設した。そして高岡銀行は北前船主を含む高岡の有力商家を中心として設立された銀行であり、富山県各地の銀行の合併を進め、十二銀行と並んで富山県を代表する銀行となるとともに、砺波銀行を合併したことから北海道の森に支店を持つに至った。
いずれにしても、1921・31年ともに北海道での道外銀行の支店の過半数は富山県の銀行の支店が占めており、こうした富山県の銀行が最終的に1943年に北陸銀行に合併されたことで、第二次世界大戦後こ北陸銀行が、北海道金融界において道外本店銀行としては有力な地位を占め続けた。
現代の富山県経済と北海道
1997(平成9)年の北海道拓殖銀行の経営破綻を契機として北海道経済界は激動の時代を迎え、2003年には北海道銀行と北陸銀行が経営統合することで基本的に合意した。その後北海道銀行と北陸銀行は、ほくほくフィナンシヤルグループを銀行持株会社としてその子会社として現在存続しているが、この両行の提携の背景には、近代以降の北海道経済と富山県経済の密接なつながりがあろう。
海運を通した物的交流は、近代期ほどではないにしても、現在の北海道で多くの富山県人会が地減別に組織され、北海道富山県人会連合会が結成されており、富山県出身者は依然として北海道で活躍を続けている。
むろん北海道は、近代以降に急速に開拓が進むなかで、富山県のみでなく様々な地域から人や物資や資金を受け入れ、他地域との交流のなかで文化や経済を展開させてきた。日本海沿岸地域経済の将来を考える上で、そうした歴史的背景を踏まえることも重要である。

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