2015年11月18日水曜日

ニシン街道を北上してみた

自分のルーツを調べていたら、父方の祖父母はどちらもニシンを追って北海道にきたのではないかと思うようになりました。それでこの夏から時間をみつけて北海道の日本海側のまちを訪ねました。

どこのまちにも写真のような「にしん街道」という標柱と説明板がありました。説明文はまちごとに違い、わがまちを控えめに自慢している説明文、思いっきり自慢している説明文など読んでいて面白くなります。



私の父方の祖母のルーツは、江差、熊石(現在は八雲町の一部)、余市町と移りすんでいますが、ニシンを追ったとしか考えられません。同じく父方の祖父のルーツも秋田県の商家のなりわいが傾いて、やはり小樽高島、余市と移りすんでいます。やはりニシンで栄えている地域に商機を見つけようとしたのではないかと思います。

私は北海道の日本海沿岸の景色は北海道の中でも最も美しい景色ではないかと思いますし、先人たちの追ったにしんを追うように北上する旅には格別のものがあるかと思っています。

すべてのまちのものを写真におさめることはできませんでしたが、今あるものを掲載します。

上ノ国町




松前の伝説の中に、「大蔵鰊」という名高い伝説があります。

その昔、上ノ国に大蔵郷という行方堅固な山伏が住んでいました。ある年、五月になってもニシンが群来しないので、村人はこの山伏に頼んで祈祷をさせました。すると、山伏の祈りが通じたのか上ノ国の前浜は大漁に沸いたそうです。

しかし、村人たちは大漁になったとたん群来は自然のものと難癖をつけたので、山伏は怒りのあまり食物をたって死んでしまいました。翌年、ニシンは江差に群来しましたが、上ノ国には群来せず、祟りもあったので村人は恐れて、山伏を神として祀ったそうです。

以後、他の村々でニシンが不漁でも、上ノ国では神の効験があって大漁の年もあったそうです。人々はこれを「大蔵鰊」と言って不思議そうにしていたということです。

いま、上ノ国に暮らす私たちは、伝説「大蔵鰊」に謙虚に学び、地域の歴史や文化を掘り起こし、そして読み解き、未来への確かな手がかりをみつけていきたいと考えています。

松前町を基点に海沿いを北に続くニシン街道の一拠点の証として、飛躍の願いを込め標柱を設置しました。

各地域が携えるニシンの歴史と伝説を受け継ぎ、語り伝える千鈞の柱。

設置月日 平成二十年六月十四日

設置者  上ノ国町観光協会  

乙部町



乙部町でにしん漁が本格化したのは、およそ300年前の、江戸時代中期に入ってからとされています。

当時、にしんが、どこの前浜に群来し始めても、松前藩主へは「乙部の浦にて初鰊群来・・・」と報告されるほど、にしんの千石場所としてにぎわい、東北などから多くのヤン衆(漁夫)が訪れ、乙部の浜は活気にあふれておりました。

そのころの乙部は、海産物出荷量の実に9割以上がにしんで、漁業の基幹を占めるほどとなり、にしん漁のにぎわいとともに、そば屋・宿・酒屋・雑貨屋など、多くの商店が立ち並んだのも、この時期とされています。

その後、明治末期には、にしんが北上し、漁は衰退していきましたが、現在も漁業や造船の町として後世に引き継がれ、にしんの網起こしで唄われていた「沖揚げ音頭」も、夏祭りのこり声として、唄い継がれております。

松前を起点とし、日本海沿岸を北上する新たな観光ルート「にしん街道」に乙部町が位置し、にしんの千石場所であった証として、こぼ標柱を設置しました。

設置月日が平成22年3月26日
設置者 乙部町
せたな町大成区



“クドウ初鰊群来る大漁”

ここ、せたな町大成区(旧大成町)も「にしん」で栄えた町の一つであります。


天明三年(今から二二四年前)の春三月「にしん」の漁期になると、松前、江差、乙部、熊石からヤン衆が漁場の親方の家へわんさとやって来て、鰊漁の準備に入りました。

「にしん」の到来を今か今かと誰もが沖を眺めて待っており、「にしん」が到来すると、各村一斉ののろしの合図で出漁しました。各村から一斉に漁場をめがけ、舟を漕ぎ出す壮観さは、美事の一語につきました。

「にしん」の声が巷に聞こえるようになると、町では漁師目当ての居酒屋も軒を並べ、夕方ともなると芸者連中は三味の音を響かせ、夜の街の賑わいが遅くまで続きました。

「にしん」の到来は、多くの人に仕事を与え、収入も良いので町は活気に溢れ、人々の往来も繁くなりました。

日本海沿岸の松前を起点とし、連なる町々は全道を一周し、、これらが「にしん街道」で結ばれ、地域の特色ある歴史と伝統の数々を垣間見せてくれるのも楽しい限りであり、「にしん街道」の旅道中であればこそ味わえる醍醐味でもあります。

それぞれの町が、特色ある創意に満ちた標柱を設置することにより、楽しさも倍加されることでしょう。
設置月日 平成十九年十月吉日
設置者  せたな観光協会大成支部



島牧村



ここ島牧は、江戸時代から明治末期まで「にしん漁」で栄えた北海道日本海沿岸のまちのひとつです。鰊建網及び刺し網を使用し、漁期雇人(ヤン衆)も千九百人を超えるなど、「にしん漁」の好況は村の繁にも深く関わりました。
 やがて、大正期に入ると「にしん漁」は衰退していきますが、この「島牧」は、地理的な関係から他の魚介藻類に恵まれていたので、新たな漁業に注がれるようになりました。
 「にしんルネサンス事業」は、「にしん」で栄えた北海道日本海沿岸の市町村に「にしん街道」の標柱を設置することにより、往時の繁栄された頃の「にしん文化」を再び蘇らせ、後世に引き継ぐとともに、松前町を始点とし北の彼方まで新たな観光ルートの確立など各地域での活性化に繋げる証として、この標柱を設置したものです。
設置月日 平成二十年十月吉日
設置者  島牧村観光協会  

寿都町





寿都町はニシン漁によって栄えた町であり、記録上に地名がでてくるのは、寛永九年(一六六九年)、シャクシャインの乱の記録の中に、「このころスッツ、オタスツ、イソヤは商場所ができていて、交易が盛んだった」と記されている。
 豊富なニシンを背景に、集落を形成していたとみられ、これが寿都町の始まりとしている。
 明治二年には、寿都、歌棄、磯谷それぞれの商場所は、場所請負人によってしきられ、漁具・漁船の改良による生産拡大のほか、道路の開削や土地の開発、漁港、船澗、袋澗の改良、子弟の教育など地域に大きく貢献し、千石場所として確固たる地位を築いている。
 このようにニシンがもたらした遺産は、歴史や芸術文化、食文化面など各地に確かな足跡を残している。
 後志西海岸地方の玄関口としてもっとも早くから開け、「北海道建網(行成網)漁業発祥之地」として十七統の大網を有し、明治三十六年には積丹、小樽に次いで三番目の最大漁獲高を記録している。
 当時の面影として鰊御殿や佐藤家、土蔵などが文化遺産として残されており、ニシン全盛期を追想し、この文化を後世に引き継ぐとともに、地域の活性化に繋げる証として、この標柱が設置されました。
  忍路高島及びもないが
   せめて歌棄・磯谷まで
設置月日 平成二十年四月吉日
設置者  寿都町観光協会  
岩内町


ここ岩内では、江戸時代から明治末期まで、主なる海産物は「にしん」でした。
 明治三十五年には、岩内郡の沿岸、雷電から泊・臼別まで「にしん」の定置漁場が一〇二ヶ統ありました。
 「にしん漁」の好況は町の繁栄にも深く関わりました。
 やがて、大正期に入ると、「にしん漁」は衰退していきます。しかし、優れた加工技術が備わっていたので、それを生かし、「にしん」を移入しての加工となりました。
 現在も海外から「にしん」を取り入れ、絶えることなく続けられています。岩内は「ミガキにしん」の生産高は全国で高い位置を占めています。
 「にしんルネサンス事業」は、「にしん」で栄えた北海道日本海沿岸の市町村を結び「にしん街道」の旅道中を楽しませてくれます。
 松前を始点とし、北の彼方まで観光ルートの一拠点である証として、標柱が設置されました。
 各地域が携える「にしん」の歴史と伝統の数々を受け継ぎ、語り伝える千鈞の柱。
  「たたずめば よみがえる にしんの銀鱗」
設置月日 平成十七年十月吉日       
設置者  第三回にしんルネサンス実行委員会

泊村




ここ泊村では、今から三百年程前(江戸時代)より「にしん漁」が始められ、明治中期より大正末期までは「にしん」の千石場所として栄え、村の発展に大きく寄与しました。
 最盛期は泊村に五十を超える魚場があり、「にしん」の建網九十二ヶ統、網元が個人で作ったミニ漁港(袋澗)もおよそ四十ヶ所在ったといいます。一ヶ統に要する人数が四十人程度ということから、東北の各地から働き手である「ヤン衆」が相当数来て、泊の浜も大変な賑わいだったようです。
 春にまると、「群来」という浜言葉があるように、海を埋め尽くすほどの大量のニシンが岸近くまで押し寄せ、産卵のために海の色が一面乳白色に変わり、そこに群れ飛ぶカモメ、波間を渡るヤン衆のキリ声、浜ではモッコを背負う人の波・・・と、壮大なドラマが繰り広げられました。
 ここに、松前を始点とし、北の彼方まで「にしん漁」で栄えた日本海沿岸の市町村に「にしん街道」の標柱を設置しようという「にしんルネサンス事業」の一環として、また、往時を偲ぶ文化遺産を後世に引き継ぐとともに、地域の活性化を繋げる証として、この標柱を設置しました。
設置月日 平成二十一年七月吉日
設置者  泊村観光協会    

神恵内村


ここ神恵内村は、1751年(宝暦元年)、古宇場所が開設されて以来、にしんの恩恵を受けて栄えた村です。
その名残の一つが、日本海沿岸に残っている袋澗です。
袋澗とは、大量に獲れたにしんを一時的に貯めておく施設で、特に神恵内村は53カ所の袋澗が存在していました。残念ながら1920年(大正9年)の101,000石の大漁を境に年々減少し、現在は、まぼろしの魚となっています。
日本海沿岸の市町村には、袋澗をはじめ、にしん御殿やにしん漁の際に唄われた沖揚げ音頭、また、各種資料館等には、写真や漁具など、当時のさまざまな文化や資料が残されており、北海道の歴史の1ページを築きあげた時代をうかがうことができます。
「にしん街道」で結ばれた地域にある、先人達が残した歴史や文化を大切にし、後世に引き継ぐとともに、地域の活性化につなげる証として、この標柱を設置するものです。

設置月日 平成22年3月吉日
設置者  神恵内村観光協会

説明文はのちほど、テキストにして写真の横っちょに書き込みたいと思っています。

追記
その後、にしんルネサンスというホームページがある説明文が出ていたので、そのコピーをはりつけました。乙部町と神恵内村だけは自分で打ち直しました。

追記
これまで私は何年もブログには写真を載せず文章だけで構成しておりました。思うところがあってブログにも写真を載せるようにしたのですが、写真とテキストの位置関係がうまくいかず、レイアウトが崩れていますが、ご了解ください。

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