2010年11月23日火曜日

一九四五年十月函館市若松町キト旅館

「母上様・・・予想していたとおり、私どもの思想を迫害することは間違いであることが日本においても確認される時期が参りました。十二年目に活社会に接して感慨大なるものがあります」。

参院選終盤の(2007年)七月二十五日、畠山和也党候補が若松町の函館駅前で、日本共産党が侵略戦争に反対した党であることを訴えた時、私はこの一節を思い出しました。

宮本顕治(七月十九日逝去)と宮本百合子の往復書簡である『十二年の手紙』に載っている、顕治の、母への手紙です。網走刑務所を出所し上京する途中、暴風雨のために乗船できず、若松町のキト旅館に二泊した一九四五年十月十一日に書かれたものです。

戦争と植民地支配が進行した現場で命がけでこれに反対した日本共産党、その幹部ゆえの受けた長期投獄。「日本人の名誉を救った」(加藤周一氏の追悼文)党の一員であることは、入党以来変わらぬ私の誇りです。(『コーヒータイム』 2007.8.19号)

追記 「十二年の手紙」の最後に宮本顕治が函館から発信した手紙があったことを知り、15年くらい前だったでしょうか、私の先輩である宮野千秋函館市議(当時、故人)に教えたら、宮野さんは函館の古い地図をもとにその旅館がどこにあったのか調べていました。でもその結果がどうだったのかはわかりません。

追記(2012年10月12日)
キト旅館の場所ですが、本間勝美議員が古い函館の地図を博物館で見て、函館駅前のロワジールホテルが建っているところだと発見しました。さすがホンマップ。このニックネームは本間勝美さんの名前と地図のマップをくっつけたもので、本間さんが函館のまちのことなら何でもしっていることからつけられたものです。

追記(2012年10月12日)
宮本顕治さんが亡くなったのは2007年7月19日、畠山和也さんが参院候補として訴えたのはその一週間後です。それも函館駅前、宮本顕治さんゆかりの場所でした。

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