2016年1月27日水曜日

フランス語は下品か? クレオールについて 黒田龍之介「ことばは変わる」を読んで①

黒田龍之介「ことばは変わる」(白水社)を、その中でも特に、言語の接触によって生れるピジンやクレオールのことについて、「なるほど、なるほど」と頷きながら面白く読みました。要約みたいになりますが、書いてみたいと思います。

複数の言語の交流によって生まれるその場しのぎのコミュニケーションを「ピジン」という
複数の言語が交流するようになると「上下関係」が生まれることがある。そうなればゆくゆくは一方が痕跡を残すだけで消滅してしまう。
しかし、そうばかりとも限らない。お互いに歩み寄って、両者が新しいことばを作るという方法だって考えられる。ピジンの始まりはここにある。
ピジンとは、接触する複数の言語のそれぞれから語彙や文法を採る入れて、ことばが通じない人たちの聞でコミュニケーションをとるために作られる、一種の「共通語」。その際、一分はある言語に近く、別の部分はほかの言語に近いというようなことが起きる。
ピジンが生まれるのは、必要に迫られたとき。とにかくその場がしのげればいい。発音とか文法とか、細かいことにこだわっている場合ではない。
ピジンは一般に語彙数が少ない。その代わり、1つの語に多くの意味や機能を持たせる。これを駆使することによってさまざまな事柄を表現するわけである。
母語となったピジンがクレオール
ピジンは基本的にその場しのぎの即席なものである。しかし、はじめはその場しのぎにすぎなかったピジンが、いつしか共通語として、だんだんと定着していく。長期間にわたって絶えず接触していけば、そのピジンは社会全体で共有されることにもなりうる。
社会全体で使っていれば、ついにはその混成言語しか使わない子どもだって現われる。子どもがみんなの使っていることばを身につけるのは、自然なことである。このように、ピジンが母語の状態になったものを、クレオールという。
クレオールはピジンに比べて、使用目的が広がる。なんといっても、母語になっているのだ。その分、語彙も豊富になり、文法だって複雑になる。もはや「その場しのぎ」ではない。
このピジンやクレオールに、なにか共通する傾向はあるのか。まず、基盤となる言語に比べて単純化されている。だが、それはそれで独自の体系を築いていることを忘れてはならない。
クレオールの評価
クレオールが形成されるまでには、その歴史的背景のため、長年「崩れた」「堕落した」「下品な」ことばという評価を受けてきた。「正しい」「純粋な」言語を好む人たちにとって、クレオールはむしろ撲滅の対象なのかもしれない。だが、今では有力言語となっているが、かつてはクレオールだったという例もある。
たとえばスワヒリ語で、タンザニア、ケニア、ウガンダなど、東アフリカで広く話されるこの言語。アフリカといえばスワヒリ語というくらい、イメージとして定着しているようだ。もちろん、アフリカ大陸全体をカバーするわけではない。
そのスワヒリ語は8世紀期の東アフリカで、アラビア語を話す商人とバンツー諸語の話者との接触により住まれた言語であるという。つまりはクレオール。
フランス語もクレオールだという考え方がある。フランス語は、ガリア語の上にラテン語が乗っかるようにして形成された。ガリア語とラテン語の間には「上下関係」ができて、ガリア語はラテン語に呑みこまれてしまう形になったが、ー部にはガリア語の痕跡も残っているし、複数の言語が接触して新しい言語が出来たことには違いない。それならクレオールではないか、というわけだ。
言語接触によって生まれたフランス語に対して、「崩れた」 「墜落した」「下品な」 という意見は聞かない。そう、フランス語は崩れていないし、堕落してもいないし、下品でもない。同様にスワヒリ語だってそうである。
言語はそれを使っている人にとって、かけがえのないものである。それに対して「崩れた」 「堕落した」といった評価を下す、その心が怖ろしい。ピジン・クレオーノレに対する偏見は、すでに完全に過去のものである。万がー、いまだに偏見を持っている人がいるとすれば、その人は言語について何も語る資格がない。
要約というか、抜粋になってしまいましたが、「フランス語は下品か?」というタイトルをつけたのも、言語に「ダメな言語」という烙印を押すのなら、フランス語だってクレオールなんだから「ダメな言語」ということになってしまうよというところが一番心に残ったからです。

さて、私は言語についてはまったくの素人なので、好きなことを書いちゃいますが、日本語ってクレオールではないのかな?

0 件のコメント:

コメントを投稿