2010年12月2日木曜日

戦争を知らない子供たちを唄ったころ

今年の10月24日、函館の医療者9条の会の方々が中心になって実行委員会をつくり、早乙女勝元講演会が行なわれました。私は残念ながら聞きにいくことはできなかったのですが、妻が実行委員のひとりとして参加し、講演後の懇親会で早乙女さんが「何年前だったでしょうか。函館中部高校の文化祭で講演したことがあります」と言ったそうです。それは34年前の1976年です。間違いありません。函館中部高校2年生の私がその講演をきいていたのですから。その講演は私の記憶にずっととどまり、その時のことをエッセイに書いたこともあります。最近、そのエッセイを発見したので紹介したいと思います。ちょっと気取った文章ですが・・・。

戦争を知らない子供たち
私は1959年、敗戦から14年目の年に生まれた戦後世代である。今年36歳になる。高校時代、私たちはよく 『戦争を知らない子供たち』という曲を歌った。私たち男子生徒はそうするのが当たり前のように髪を長-伸ばし、授業の合間にギターを弾いては歌をうたった。それは受験競争の中のひとこまではあったか、校則に縛られ息がつまるような中学生活から解放されただけに、楽しいひとときでもあった。


「戦争が終わって僕らは生まれた/戦争を知らずに僕らは育った大人になって歩き始める平和の歌をくちずさみなから僕らの名前をおぼえてほしい戦争を知らない子供たちさ」。大人社会に反発しながらも「戦後世代だって平和のことを考えているんだ」という若者らしい気負いが感じられるこの曲は高校生に人気があった。


その頃、文化祭で私たちは作家の早乙女勝元氏の講演をきいた。彼は「『戦争を知らない子供たち』という歌があるが、戦争はいまも身近にもあります」と切り出し、ベトナム戦争の話を始めた。アメリカ軍によってベーナムの村民が虐殺され、奇跡的に生き残った「ダーちゃん」の話に、私たちは胸を扶られ、同世代の少女の悲しみに思いを馳せざるを得なかった。さらに早乙女氏は東京大空襲の話もした。


戦争がもたらした事実の重さの前に、私は「戦争が終わって生まれた」ことと「戦争を知らずに育った」ことの違いをはじめて知った。一九三一年から始められた十五年戦争が侵略戦争であったこと、その反省の上に立って戦後の日本社会があることもその後に知った。
戦後五十年を記念して作成された映画『きけ、わだつみの声』を最近みた。フィリピン戦線に派遣された学徒兵が、現地住民の虐殺を目の当たりにして「これがアジアを解放する戦争なのか」と歯がみをするシーン、朝鮮人の従軍慰安婦か朝鮮民謡のアリランを歌いながら死んでいく場面にはジーンと迫るものがあった。


「戦争を知らない」ということはけっして自慢することではないが、私は今でも『戦争を知らない子供たち』の曲が嫌いではない。湾岸戦争の時にイギリスでジョン・レノンの「イマジン」か反戦感情を煽ると放送禁止になったそうだが、『戦争を知らない子供たち」が放送禁止になるような世の中にしてはならない。


「自存自衛の戦争」だという当時の戦争推進者の言い分と矛盾しない、開き直りの国会決議が衆議院であげられただけにそう思う。過去を直視せすに平和な未来は築けないのだから。(『どんぐい』 18号 1995年)

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