2010年12月1日水曜日

ひとすじの道 宮野千秋さんのこと

2010 年04 月28 日
宮野千秋さんとお別れする会代表あいさつ

本日は「宮野千秋さんとお別れする会」に、お忙しい中、こんなにもたくさんの方にお越しいただき、また、お花やお供え、ご香料をいただき、まことにありがとうございます。心から御礼を申し上げます。私はこの会の代表を仰せつかった日本共産党函館地区委員長で、宮野さんのあと、日本共産党函館市議団長をつとめております高橋佳大と申します。宮野千秋さんを地域で支えてくださった赤川町会のみなさま、宮野さんが議員勇退後、熱心に活動されてきた国民救援会函館支部のみなさま、また宮野さんとともに市民活動に参加されているみなさまとともに、ご遺族の希望を受けて、このような形で、会を運営させていただくことになりました。どうぞよろしくお願いします。

宮野さんの訃報を私が聞いたのは26日の朝でした。函労会議の岩瀬英雄さんから「宮野さんが今朝亡くなりました」と連絡があり、「えっ、どこの宮野さんが亡くなったって」と聞きなおしました。その10 日前に、私どもの古岡ともや道議予定候補を、核兵器廃絶のニューヨーク行動に送り出すビアパーティの時には上機嫌で「いい集まりだ、いい集まりだ」と私に繰り返し言っていたので、信じられませんでした。何はさておき、宮野さんの自宅に飛んで、「宮野さん」と声をかけ、冷たくなった額に手を置いたとき、「ああ宮野さんは亡くなったんだ」と思いました。

その日の朝のことを奥様の巴さんからお聞きしました。その日の明け方、急に具合が悪くなり、めったなことでは病院に行きたがらない宮野さんもさすがに観念して、タクシーに乗って稜北病院に行きました。その時は、まだ話もでき、ジョークも言っていたそうです。心電図で心筋梗塞とわかり、中央病院に救急車で搬送されましたが、中央病院に到着して、間もなく息をひきとったとのことです。不意打ちを受けるように、突然に、宮野千秋さんの波乱に満ちた81年の人生は、その幕を閉じることになりました。

ここで私は宮野千秋さんの81年の生涯を駆け足になると思いますが、ご紹介したいと思います。宮野さんは1929 年(昭和4 年)3 月6 日函館市に生まれました。1941年(昭和16年)に函館市立若松小学校卒業、1945年(昭和20年)に旧制の函館中学校(現函館中部高校)卒業、1948年(昭和23年)に盛岡工業専門学校(現岩手大学工学部)を卒業しました。宮野さんは青少年時代について「兄・姉を早くに亡くし、病弱でもあったため、両親の庇護厚く育った。両親は岩手の農民として、貧しいものに対する思いやりや正義感が強く、その面を引き継いだ」と自らの経歴書に記しております。

学校を卒業した19歳の宮野青年は、函館市立高盛中学校(現光成中学校)に赴任し、翌49年(昭和24年)には、松風中学校(現凌雲中学校)で教鞭をとることになります。その時の気持ちを宮野さんは「これからいろんなことを経験するだろうという期待でいっぱいであった。生活の苦しみ、重さ、ということにはあまり頓着のない年齢でもあった」と振り返っています。当時は戦後の民主主義運動の高揚の時期でした。宮野青年は、日本共産党に入党するとともに、北教組函館支部執行委員、日本民主青年団函館地区委員長と旺盛な活動を展開していきます。

しかし戦後の民主主義は、49年から急速に右旋回していきました。戦後第1の反動期です。宮野青年は、日本共産党員であるというただひとつの理由で、学校の職場から追放されます。いわゆるレッドパージです。この時の状況を宮野さんは、みなさまのお手元にお届けしております手記に克明にまとめています。この手記は私も何度か読みなおしていますが、感情に流されず、小説タッチで、その文章力でぐいぐい読者をひきつけていく魅力があります。満身の力を込めた歴史の証言だと私は思います。

その中の一節、朝礼で生徒たちに別れを告げるシーンを私は紹介したいと思います。「みなさん、これまで、みんなといっしょに勉強もし、遊んでもきましたが、いよいよ、やめることになりました。やめる、というよりやめさせられることになりました。私はやめたくないのです。正しいことをしっかり、勇気を持って実行することでやめさせられるということは、なっとくいかないことです。この深いわけはやがてみなさんが大きくなったときに、もっと良くわかると思います。みなさんの弟か妹か、あるいはこどもになるかもしれませんが、その時に、また、こうして教壇に立って遭えるときがあると思います。しっかりがんばってください。」

間違いなく、レッドパージは宮野さんの人生の中で最大の出来事だったと思います。宮野さんは、好んで「ひとすじの道」という言葉を使いました。宮野さんは、懐柔に屈することなく、この困難を乗り越え、「ひとすじの道」を歩んだのだと思います。私も議員としてあちこちの地域を訪問しますが、宮野さんの教え子だった方々にお会いすることがよくあります。教え子のみなさんは、きまって「宮野先生お元気ですか」と、尊敬と親しみをこめて私に尋ねてきます。レッドパージの体験は宮野さんの教え子にとっても人生の中での大きな出来事だったのだと思います。

その後、宮野さんは苦労をしながら活動をつづけますが、1958年(昭和33 年)から1970年(昭和45 年)まで、自動車労連の書記として、タクシー労働者、バス労働者とともに、労働運動に携わります。いまでもタクシー労働者の自交総連のみなさんにお会いすると「宮野さん元気ですか」とやはり尋ねられます。宮野さんは、1970 年から党専従として活動しますが、1979 年(昭和54 年)に、函館市議会議員に初当選し、以降5 期20 年議員として活動します。

議員にとっては議会質問が命ですが、よく準備された質問、巧みな話術で切り込む質問に、「宮野さんの質問が大好きだった」と、立場の違う議員から私もずいぶん声をかけられます。私は、紺谷議員とともに、宮野さんの後継者として活動していますが、宮野さんに「議会質問の準備は大変でしたか」と聞くと、笑いながら「受験勉強と同じ」という答えが返ってきたり、「決算委員会の準備はいつから始めていましたか」の問いに、「決算が終わった次の日から、1年後の準備を始める」と答えが返ってきた時には、ただただ脱帽しました。

宮野さんといえば、軽妙な話術が売りでしたが、これも思いつきではなく、しっかり準備していました。宮野さんからよく調べものの依頼がきました。「ルイ・アラゴンの詩のあの有名な一節は何だったか」とか、最近では「ここ3 年間の交通事故の件数を教えてほしい」とか。最初は何のことかわからないのですが、1 週間くらいたつと集会の短いあいさつの中にその言葉がでてきてなるほどと思ったり、交通事故の件数は赤川の交通安全祈願祭の準備だったようです。

さて、宮野さんは議員になってから住まいのある赤川町会の顧問になりました。赤川地域の要求実現のためにがんばってきました。別な言い方をすると赤川のみなさんに支えられて議員活動をしていたということです。宮野さんは1999 年(平成11 年)に議員を勇退されましたが、後継ぎとして宮野さんと赤川のみなさんにごあいさつの訪問をすると、みなさん口をそろえて「宮野さん、まだまだ元気だからやめないでほしい」と勇退を残念がっていて、私は、宮野さんがいかに赤川のみなさんに愛されているかを強く感じました。

そして宮野さんは「赤川の人たちを大切にしてほしい」と言って、私にバトンタッチしました。その宮野さんの言葉は、私から赤川在住の紺谷議員にバトンを渡し、紺谷議員によってしっかり守られています。宮野さんは、勇退後も、国民救援会函館支部の副支部長として、無実の人を救う救援美術展などの活動や、非核平和条例を制定する市民運動などに熱心にたずさわっていました。

宮野千秋さんの突然のご逝去は、大きな驚きで、そしてとても残念なことですが、各界の方からいただくお別れの言葉や追悼歌や献花で、不正議に頭を垂れることなくひとすじの道を歩んだ宮野千秋さんの生きざまを偲び、追悼したいと存じますので、どうぞよろしくお願いいたします。

最後になりましたが、奥様の巴さん、長女の夏実さん、次女の紅さん、そしてお孫さんたちが遺族として残されました。奥様の巴さんは、のちほどごあいさつをいたしますが、私からも、変わらぬご厚情を御遺族に賜りますようお願いを申しあげまして、ごあいさつとさせていただきます。本日は本当にありがとうございます。

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