2017年3月14日火曜日

人類史の新しい発見にワクワク

「人類がどう進化してきたのか」「人類は世界にどのように広がってきたのか」「日本人はどこからやってきたのか」、そんなワクワクするようなことがさまざまな発見によってわかってきています。人類史の新しい発見を報じる新聞記事の切り抜き帳です。

ルーツは南方にあり? 石垣島白保竿根田原洞穴遺跡㊦
DNA分析じわり解明


「しんぶん赤旗」2017.3.6付

前回に続いて、沖縄県石垣島の白保竿根田原洞穴遺跡で発見された多数の旧石器時代の人骨について、これまでにわかってきたことを紹介します。


白保竿根田原洞穴遺跡で見つかった旧石器時代の人骨は、篠田謙一・国立科学博物館副館長たちによるDNA分析が行われています。細胞内小器官であるミトコンドリアのDNAを対象にしたもので、そのハプログループと呼ばれる系統情報を調べることで、その人が地球上のどこに起源をもつか推定することができます。

海を渡り沖縄へ
これまでに、5体の人骨からミトコンドリアDNAを取り出して分析することに成功。このうち3体は約2万年前と約4000年前の人骨で、M7aとされる日本固有のハプログループが特定されています。次の1体は約2万年前の人骨で、ハプログループはB4でした。ハプログループBは中国の南部か東南アジアで5万年ほど前に誕生したと考えられています。

もう1体は、ハプログループRに属するものでした。このハプログループも、東南アジアや中国南部など南方地域に起源をもつとみられています。ミトコンドリアDNAのハプログループが判明した5体から見る限り、白保竿根田原洞穴遺跡を利用した旧石器人は、中国南部や東南アジアの集団との関連がうかがえるのです。

発掘調査の責任者の仲座久宜・沖縄県立埋蔵文化財センター調査班長は「白保竿根田原洞穴遺跡の発掘調査により、約2万年前には石垣島に旧石器人が住んでいたことが明らかになったわけですが、その人たちがどこから来たのかということになると、いずれにしても海を渡らないといけないので難しい問題です。DNAの分析からは南方ルートが考えられるということだと思います」と説明しています。

国立科学博物館の海部陽介・人類史研究グループ長たちによる、沖縄へ海を越えて渡ってきた旧石器人の航海を再現するプロジェクトも進められています。

墓だった可能性
白保竿根田原洞穴遺跡では旧石器時代の人骨が多数出ているのに、石器はほとんど出ていません。石器とみられるものもありますが分析中のため、現時点で、石器・石材という区分をせざるを得ない状況です。仲座さんは「おもな石材は、石器には不向きな石英なんです。チャートとか、石垣島には石器に向いた石が豊富にあるのに不思議です」と首をひねります。

石器だけでなく、旧石器時代の人骨が見つかっている層からは火を燃やした跡など、生活の場として利用されていたことを示す痕跡がまったくと言っていいほど見つかっていません。このため、石垣島の旧石器人は白保竿根田原洞穴を墓として利用していたとする見方が強まっています。

当初から調査に携わっている土肥直美・元琉球大学医学部助教授(人類学)は「これだけまとまって複数の人(の骨)が出るということは、一般的に考えたらお墓です。中には、ほとんど1体分、顔の方に膝を折り曲げるような形で見つかっており、葬られたとしか考えられません」と確信をもって語ります。

驚きの発見期待
白保竿根田原洞穴遺跡からは、旧石器時代から約500年前ごろまで断続的にせよ人々が継続的に利用していたことを示す証拠が見つかっています。この中には、沖縄で初めてとなる、約4000年前の下田原期(本土では縄文時代後期に相当)の人骨の発見も含まれています。白保竿根田原洞穴遺跡は現地で保存されることが決まりました。

沖縄県立埋蔵文化財センターが、2016年7月まで5か年計画で行ってきた発掘調査の報告書がまもなくまとまり公表される予定です。今後も、同センターと発掘調査に携わったさまざまな分野の研究者による研究が続けられ、驚きの発見が続くことが期待されます。(おわり)

旧石器人 どんな顔? 石垣島白保竿根田原洞穴遺跡㊤
国内2例目 復元なるか



「しんぶん赤旗」2017.3.6付


沖縄県石垣島で2008年に発見された白保竿根田原洞穴遺跡からは、約2万年前~500年前までの遺物が多数見つかっています。中でも、旧石器時代の人骨は豊富で、保存状態がよく、沖縄本島港川フィッシャー遺跡の港川人に続いて国内2例目となる旧石器人の顔の復元に期待が高まっています。

白保竿根田原洞穴遺跡からは、これまでに人骨片が1000点以上見つかっています。このうち、旧石器時代の人骨は10体以上にのぼると見られています。当初から調査に携わっている土肥直美・元琉球大学医学部助教授(人類学)は「東アジア最大級の旧石器人類遺跡です」と、重要性を強調します。

人骨の中には頭部の骨も含まれています。不完全ながら、顔の部分が残っているものもあります。以前なら復元は不可能でしたが、国立科学博物館との共同で、残っている部分の形態をコンピューターに取り込み、欠けている部分に残っている部分を反転して補うやり方でどんな顔をしていたかの復元を試みています。

港川人と同時代
国内で見つかった旧石器人骨で唯一顔が復元されている港川人は、南方の人々に似た特徴があると指摘されています。白保竿根田原洞穴遺跡の約2万年前の人骨は、港川人とほぼ同じ時代です。沖縄本島と石垣島は約400㌖離れています。土肥さんは「果たして、白保竿根田原洞穴遺跡の旧石器人が港川人に似ているのか似ていないのか、まもなくお見せすることができると思うので楽しみにしてください」と語ります。

重傷者を看病か
白保竿根田原洞穴遺跡で見つかった旧石器時代の人骨の中に、研究者の目をひときわ強く引き付けたものがありました。大腿骨の股関節にはまり込む部分(大腿骨骨頭)がつぶれたように変形していたのです。何らかの事故で大けがを負ったと考えられますが、その後も生きていたことを示す痕跡が残っていました。

土肥さんは「あまり見たこともないぐらいつぶれているので歩くことができなかったでしょう。それでも生きていたということは、集団内でそういう人たちをケアする社会だったと考えられます」と説明します。(つづく)

じっくり調査 異例の体制(かこみ記事)
白保竿根田原洞穴遺跡は2008年、石垣島の新空港建設に伴う洞穴調査で発見されました。洞穴は、●●石灰岩で覆われた台地が長い時間をかけて水の浸食を受けてできたものです。浸食がすすむと天井が崩落します。このため地表面には穴ができていましたが、空港建設以前使用していたゴルフ場により埋められていたことから、工事が始まるまで洞穴の存在は気づかれませんでした。

このときの調査で見つかった人骨には、亜熱帯地域にもかかわらず奇跡的にコラーゲン(タンパク質の一種)が残っており、それを使った放射性炭素年代測定で、最も古いものンは2万年以上前に生きていた旧石器時代の人骨とわかりました。骨から直接年代がわかったものとしては国内最古の人骨でした。

以後沖縄県立埋蔵文化財センターが中心となって、人骨の検出に細心の注意を払うとともに、出土した遺物はすべて洞穴内のどの位置で発見されたかを詳細に記録しておくなどのやり方で調査が進められてきました。

調査には人類学や考古学、地質学、さらにDNA分析など関連のある各分野の専門家が参加。これまでにない、遺跡調査の妥当性を検証する委員会も設置されました。

調査の責任者を務める仲座久宜・沖縄県立埋蔵文化財センター調査班長は「異例とも言える画期的な取り組みをした結果、約2万年前に石垣島に住んでいた旧石器人が、どんな人たちだったかを探るうえで必要な情報を得ることができたと思います」と胸をはります。

古代の米先住民D N A分析 母系社会の証拠発見
“原始、女性は太陽”

「しんぶん赤旗」2017.2.26付

思想家の平塚らいてうは、1 0 0年以上前に発刊された雑誌『青鞘(せいとう)』に「原始、女性は太陽であった」と題する文章を寄せました。実際、古代には、母系制の社会が当たり前だったことがわかっています。最新のDNA分析技術などで、米先住民の社会が母系制だったことを裏付ける証拠が得られ、科学誌『ネイチャー・コミュニケーションズ』(21日付)に発表されました。

米ペンシルベニア州立大学などの研究グループは、米ニューメキシコ州のチャコ·キャニオンにある米先住民の遺跡を調査しました。チャコ·キャニオンには、西暦800年から同1130年にかけて栄えたプエブロ文化の遺跡があります。そこには、1棟に数百の部屋がある巨大な建物がいくつ集まっていました。その建物の中のー室には、多数の人骨が貝やトルコ石のピーズとともに収められていました。地位の高い家の人々が代々葬られた墓とみられています。

研究グループは、これらの骨に残っていたコラーゲン(タンパク賢のー種)を使って放射性炭素年代測定をするとともに、DNAを抽出して解析しました。その結果、細胞内小器官、ミトコンドリアは、分析した人骨のすべてが同じであることが判明し、同じ母方の家系に属することが明らかになりました。ミトコンドリアDNAは母親のものだけが子どもに伝わるからです。

それぞれの人骨の年代や、細胞核のDNAの分析による性別決定などに基づいて、人骨どうしの関係を家系図として復元できたといいます。それによると、このー家は母親から娘ヘと相統が行われる母系制の社会であることが確認できたといいます。

旧石器時代の“ゴッホ”
3万8000年前の点描画


2017.2.2「しんぶん赤旗」

19世紀のオランダの画家ゴッホの作品には、さまざまな色の点を組み合わせて表現する点描という画法で描かれたものがあります。米・ニューヨーク大学など欧米の研究グループは、3万8000年前の旧石器人が点描画法で絵で描いていたことを示す証拠を見つけたと、科学誌『クウォータナリー・インターナショナル』(24日付)に発表しました。

研究グループは、洞窟壁画で知られるラスコー洞窟などがあるフランス南西部ドルドーニュ県にある旧石器時代の現生人類(ホモ・サピエンス)の遺跡を調べました。その結果、点で表した野牛が描かれた石灰岩の板を発見しました。年代測定で3万8000年前のものとわかったといいます。さらに、その近くにある同時代の別の遺跡からも点で表したマンモスが描かれた石灰岩の板が見つかったといいます。

点描画法は、ゴッホと同じ時代のフランスの画家ジョルジュ・スーラが確立したとされています。

ニューヨーク大学の人類学者で研究グループのランドール・ホワイト教授は「点描画法は近代美術家が編み出したものとして知られているが、私たちはヨーロッパの最も初期の(現生)人類の文化がそれを実践していたことを確認した」と説明しています。

2万4000年前 北米に現生人類
カナダなどのグループ

2017.1.23「しんぶん赤旗」

北米に現生人類(ホモ·サピエンス)が2万4 0 0 0年前にやってきていたことがわかったと「カナダ·モントリオール大学などの国際研究グループが米科学誌『プロス·ワン』(16日付)に発表しました。従来、知られていた最古の“アメリカ人”より約1万年古いといいます。

研究グループは、カナダ北部、ユーコン地方の米アラスカ州との境に近いところにある遺跡で見つかっていた多数の動物の骨を調べました。その結果、石器でっけられた傷のある骨が15個見つかりました。年代測定を行った結果、2万3 000年前〜2万4 0 0 0年前のものとわかりました。

北米に現生人類がやってきていたことを示すこれまでで最も古い証拠は1万4 0 0 0年前のものでした。しかし、2万4 0 0 0年前ころは地球が寒冷化していて海面が大幅に低下し、アジア大陸と北米大陸がつながっていました。両大陸を結んでいた陸橋(ベーリンジア)には当時から現生人類がやってきていたとする説が提唱されています。

今回の発見は、それを裏付けるものだと言います。

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