2012年12月2日日曜日

あなたの夢は?


新聞社のアンケートで「あなたの夢は?」と聞かれ、「死ぬまでに、まじめに生きている人々の群像を描いた長編小説を一編だけでも書くことが夢」と書きました。



実は、私は小説書きになりたいと思っていた時期がありました。「人間の生きざま」を書くことを自分の仕事にできたらどんなに素敵だろうと思ったからです。実際には日々の活動の忙しさの中で年月だけが経ってしまい小説は書けていません。

政治家というのは、政治を通して、人間の人生にかかわっていく仕事だと思います。いまはこの仕事に全力をあげます。

若い頃、もう20何年も前のことですが、小説もどきを書いたことがあります。恥ずかしい限りですが、紹介したいと思います。


似顔

高橋佳大


この地方独特の風が吹く三月中句の午後、笠神慶太はC高校の正面玄関前にいた。その日は三時から、C高校の合格発表が行われる予定であった。優太は緊張しながらその瞬間を待っていた。もっとも受験したのは慶太ではなく、隣に立っている松野陽平であった。この日、慶太は陽平の付き添いとして、C高校までやって来たのである。陽平から二精に来てくれと頼まれた訳でもなく、彼の母親である尚子に頼まれた訳でもない。慶太は陽平の単なる家庭教師であって、合格発表の付き添いは慶太にとって、言わば「サービス残業」に属するようなものである。

慶太は春を告げる突風に吹かれながら、自分の「付き添い志願」について考えてみた。慶太は二年二ケ月間、陽平が中学一年生三学期から付き合ってきたが、陽平はいい生徒とは言い難かった。慶太は、陽平の扱いにてこずったし、悩みもした。しかし、陽平は世間で言う非行少年ではなかった。学校や家庭内で暴力を振るうこともなく、シンナーや煙草を吸うわけでもなかった。むしろ陽平はおとなしい物静かな少年だった。

しかし、慶太にとってはそれが逆に苦痛だった。陽平はいつも気怠い沈鬱な態度で慶太を迎え、勉強意欲も限りなくゼロに近い状態だった。慶太の問いに答えることもごく稀で、二人の会話は慶太から陽平への独白という形をとらざるを得なかった。家庭教師を、学校生活を支える割のいいアルバイトと割り切って考えてしまえば苦痛は和らいだ筈だが、慶太にはそれができなかった。

一方、陽平を不憫に患う感情も慶太の中に宿っていた。幼い頃父親を失った陽平に父親の記憶はない。母一人子一人の成育過程が、陽平の性格に深く影を落としているとしたら、それは不幸なことだと慶太は思っていた。陽平からの逃避の願望と、陽平に密着したいというこだわりを慶太は心の中で闘わせながら過ごしてきたが、次第に後者の考えが慶太の心を占めるようになっていた。

慶太の働きかけがうまく行ったからではなく、逆にそれはいつも空振りに終わったかのように見えた。少なくとも陽平の表情を見るかぎりでは、効果が表れたようには思えなかった。

それにも係わらず、陽平の顔に少年らしい笑顔を見るという使命感-慶太を共産党や民青の活動に駆り立てるものと同質の-が慶太の心を徐々に捉えていったのだった。

慶太は自分の努力の効き目が、目に見えなくとも、陽平のどこかに表れてはいないか、それを発見したくて、ついつい「サービス残業」をしてしまうのであった。

発表前の緊張感の中で慶太は、陽平との思い出の日々を胸の中に甦らせていた。


二年程前のある日の夕方のことであった。慶太は階段を上って、陽平の部屋の襖の前に立つと、大きく深呼吸をして憂鬱な気分に活を入れようとした。彼は可能なかぎり陽気な声で襖を隔てた陽平に声をかけた。

「おう陽平、入るぞ」
「・・・・・・」

陽平の返事がないのはいつものことなので、慶太は驚きもしないが、深呼吸の効果もここまでだ。無理強いした自分の心の高揚が急激に萎えていくのを感じながら、慶大は襖を開けた。

「おっ、真っ暗じゃないか」

蛍光灯の紐を探り当て引張ると、鈍くて白い光が陽平の六畳間を照らした。敷きっ放しの布団の上に、横を向いて転がっている陽平の姿には意志というものが感じられなかった。慶太は魚市場に転がっているマグロの目を思い出した。陽平は眩しそうに目を細めて彼に一瞥を呉れたが、またすぐにマグロに戻ってしまった。慶太には、ただその場に突っ立っているだけしか術がなかった。

慶太と陽平とのつきあいもそろそろ二ケ月になっていた。慶太は週に二回、火曜日と金曜日に陽平の家に来て、二時間ほど勉強を教える。しかし、「教える」と言うよりは、「教えることになっている」と言う方が、より真実に近いと言えた。それは、教えない日もあったからだ。だが、それは慶太の怠慢ではない。陽平にはやる気が全然ないのだ。責任の所在は自分にはない。一介のアルバイト家庭教師に生徒の拒絶の責任を負わせるのは、酷なことだ。慶太はそう思おうとしていたが、それでも、火曜日と金曜日の憂鬱が重く伸し掛かっていた。

陽平に勉強意欲を持たせようと、それが無理でもせめて二人の関係を友好的なものにしたいと思い、慶太は様々な努力を講じてきた。初対面の時、この子にはどこか感情を押し殺したところがあると感じて、陽平に作文を書かせようとしたこともあった。その作文から何かの手がかりを得ようともしたが、試みはあっさり失敗した。

「人間っていうのは、悲しかったり、嬉しかったり、いろいろあるだろう。何かに感動することもあるだろう。俺はそういうのが大切だと思うんだよ。何でもいいから思っていることを書いてみてくれよ」

その時陽平は、思いっきり大きなため息を吐くとそのまま黙りこくってしまった。

それにしても、その日の陽平は重症だった。こんな時、勉強を無理強いすることは却って危険だ。慶太は優しく声を掛けた。

「おいおい、陽平いったいどうしたんだ。随分深刻そうじゃないか」
「……疲れてる」

陽平が一言気怠そうに言ったきり、部屋は又、沈黙に包まれた。置時計の規則的な音だけがせわしく、やけに大きく聞こえてくる。慶太はその音に急き立てられるように言った。

「……そんなに疲れているんなら仕方ないな、いいよ、明日また来るから……。それにしても陽平、どこか悪いんじゃないのか?」
「……」
「お母さんと喧嘩でもしたか?」
「……」
「陽平、いじめられたか?」
「……」

慶太はいくつもの選択肢を順繰りに連発した。当った時だけ陽平が微かな反応を示すことを慶太は心得ていた。陽平との意志の疎通はこのように気長にやるしかなかった。

「今日は陽平の帰りが遅かったって、さっきお母さんが言ってたけど、何か関係があるのかな?」

慶太にうしろを見せたまま布団に横になっていた陽平の頭がわずかに動いた。第一関門はやっと突破された。それから慶太は同様の手法で、さながらクイズの解答者のように、彼の不機嫌の原因をとうとう突き止めたのだった。

陽平のクラスは六、七人ずついくつかの班に編成されており、陽平はその一つの班長になっていた。教育上の配慮があって、担任がおとなしい陽平を班長に就けたのかもしれない。彼の母親尚子が自慢気に話していたので、それは慶太の記憶にあった。班別に過二回、放課後の掃除当番が回って来る。真面目に掃除をやるものは誰もいない。そんな級友たちを咎めるでも説得するでもなく、陽平は夕方までかかって、掃除を終えて帰ってきた。級友たちに腹を立てたのか、何も言えず責任を取った自分が嫌になったのかは知らないが、陽平の不機嫌の原因はその周辺にあった。やっとのことで、慶太はそこまで突き止めることができた。

「そうかあ、班長はつらいなあ、陽平」

すると、急に陽平は起き上がって涙を流し始めた。両手の甲で交互に涙を拭うのだが一向に収まらず、陽平はとめどもなく泣きじゃくっていた。


陽平の母親尚子は、いつも夕食を作って慶太を待っていた。実家からの仕送りを受けずに苦学している慶太にとって温かい食事は有難かったが、それ以上に尚子と会話することは苦痛だった。

「何グズグズしてんのっ、先生待ってるっ、テレビ見ないっ、早く食べるっ」

尚子は手裏剣を飛ばすように催促の言葉を浴びせたが、それでも気分が収まらないのか、今度は陽平の頭を腹立たしげに小突いた。

「お母さん、いいんです。だいたい僕が早食いなんですから」

慶太はいたたまれなくなって、横から嘴を入れたが、不幸にもそれがきっかけとなって、尚子は陽平のあれこれをあげつらい始めた。

「…ったくこの子はのろまでのろまで、いつになったら自立できるんだか。先生っ、こないだみたいな事あっても、このバカに甘い顔みせちゃ絶対ダメ。メソメソすれば済むものかと思って付け上がるだけ。なんぼひっぱたいたって構わないから」

「でも、こないだは学校でいろいろあったみたいだし……」

慶太の言葉などまるで耳に入らないのだろうか、尚子はまた陽平を叱りつけた。

「テレビ消しなさいったらっ、早く食べて部屋を片付けたらどうなの。まったく、ブタ小屋にして。それで勉強できると思ってんの」

陽平はむっとして、テレビを消すと大きな足音を立てて二階に上がっていってしまった。

「いいのいいの、おなか空いたら夜中に勝手に食べるんだから。食べることだけは一人前で……。早く自立して欲しいと思うからこそアタシほどシビシ言ってんのに、陽平ったら最近じゃ逆らうようになって、ああ疲れること。それでもこの前までは、メソメソしながらもアタシの言うこと聞いてたんだよ、先生」

親に反発することは、そもそも自立の始まりではなかったのか。少なくとも慶太の場合はそうだった。尚子は自立しろと陽平を一度突き放しておきながら、すぐまた性急に口出しする。陽平は尚子の重力圏を脱出しようともがきながら、まるで衛星のように尚子の回りをぐるぐるまわっているのだ。そんなことを尚子に指摘したところで、一笑に付されるだけだ。また、そんな勇気も持てずに、慶太はただ黙っていた。

「陽平はアタシの苦労なんかさっぱりわかっちゃない。アタシは床屋の手伝いする前は蒲鉾屋で働いていたんだよ。朝四時から起きてさ、そりゃあ社長は世話焼いてくれたけどね、それが恩着せがましくて、そんなのは余計なおせっかいだって。そんな人を信用するとこっちがバカを見ることになるんだよ、必ず。人のこと父親のいない家庭だと思って、人のこと信用するもんでないよ。陽平にはいっつも言ってきかせてるんだけど、あれは世の中のこと分かってないんだから。こないだなんか、友達のアルバイト一日中手伝って一銭も貰ってこないの、だからアタシ呆れて文句のひとつも言ってやったら、陽平ったら、親切して何で怒るんだですって、御人好しで世の中生きていけないんだって言ったら黙ってたけどね」

尚子の剣幕に圧倒されて慶太は相槌を打つこともままならなかった。このとげとげしさは何だ。心に余裕を持つことも、優しさを認めることも尚子にとっては人生の敗北を意味するのだ。自らの手のうちを慶太に示すほど尚子の頑な人生観は信念にまで高まっているのだろうか。

女手ひとつで陽平を育ててきた苦労は計り知れないものがあったのだろう。それを慶太は否定するつもりはない。ただ、その苦労の大きさに比例して、陽平の性格のかげりは途方もなく手に負えないものになってしまったのではないか?どろ沼だ、慶太は気が重かった。

そんな慶太の心に気づかず、尚子はさも素晴らしいことを教えてやったと言わんばかりに続けた。

「お父さんは偉かったんだよ。この家建てるためにホントに一生懸命働いたんだから。それにウンと勉強が好きだった。仕事が遅くなっても、必ず二時間くらいは新聞を読んでたんだよね。アタシなんか早く寝ればいいのにっていつも思ってたんだけど、陽平は何でお父さんに似なかったんだろうね。少しぐらい絵がうまいからって、何の役にも立ちゃしない」

陽平は確かに絵がうまかった。陽平の部屋に飾っていた絵に慶太は感心したことがあった。丘の上から眺めた港を描いたその絵は、学校の絵画コンクールに入賞したものだった。

「陽平、なかなかうまいじゃないか。おまえ、将来、絵の才能を生かしたらどうだ」
「でも……」

陽平の「でも」の意味がここにきて慶太にはやっと分かった。

「こないだの三者面談で、担任の先生が、このままだと陽平には入れる高校ないって言うんだから。父親のいない家庭だから高校に入れないなんて絶対言わせたくないの。だから慶太先生だけが頼りなんだからね」

人を信用しない尚子に自分だけが顧りだと言われて、慶太は何とも複雑な気がした。

尚子の後家の頑張りは、その後も陽平の受験が近づくにつれて、とげとげしさの度を増し慶太を辟易させた。北浜五郎の話を聞かなかったなら、慶太はとっとと尻尾を巻いて逃げ出していたことだろう。


陽平のことについて相談しようと思い、慶太はM一般A造船支部の事務所に北浜五郎を訪ねた。事務所内は物資販売の品物や支援共闘ニュースなどの文書が積まれて雑然としていた。この労働組合の構成員は七名と小規模だったが、自らの解雇撤回闘争という大きな仕事に取り組んでいた。北浜ら七名は前年からの会社解散・全員解雇というA造船の攻撃に対して「有志の会」を組織して闘ってきた。しかし、A造船は退職金の上乗せと新会社への再雇用を匂わせ、組合の懐柔を謀ると、組合はあっさり妥協した。「有志の会」のメンバーたちは、労働者の首を切るお先棒を担いだ御用組合に訣別して新たな闘う労働組合を結成した。生まれてまもなく争議団となったその組合の支部長を北浜はしていた。

支援共闘会議の構成団体である民青同盟の担当者として慶太は北浜と付き合い始めていた。陽平の家庭教師のアルバイトを慶太に斡旋したのも北浜だった。

「君が家庭教師を辞めるのは自由だ。何も俺に気兼ねすることはない。ただ君に見せたいものがあるんだ」

北浜は、机に広げていたオルグ日誌の上に一冊のファイルから取り出した一通の文書を置いた。それは十年以上も前に発行されたA造船の労務時報で、紙の端が黄ばんでいた。北浜はその紙をクルッと裏返して、死亡欄の写真を指差して感慨深げに言った。

「この人はな、松野陽三さんといって、職場は船殻課だった」
「せんこくか?」
「そう、船の殻と書く、船の胴体を繋げたりする仕事だ」
「そうですか、陽平のお父さんですね。どんな人だったんですか?」

尚子が誇らしげに語った陽三の人物像と北浜の記憶にあるそれは、はたして同じだろうか、慶太にはそんな関心が湧いてきた。

「陽三さんが今も生きていたら同志になっていたかもしれないな」
「へぇーっ、どうしてですか?」

「どうしてって、労働者の勘だな。彼がまだ新倉町のハーモニカ長屋に居た頃、『赤旗』の拡大に行ったことがあるんだ。俺は労働組合の専従をやっていて、党の顔のようなもんだ。あの頃は党の支部も全盛で、組合の執行部にも党員がまだたくさんいたし、みんな頑張って闘っていたよ。労働者からは頼られていたし『赤旗』も随分増やしたさ。でもな、宣伝紙を手にとって、その場でじっくり読んだのは彼だけだったよ。俺は、この人は違うなって感じたんだな」

お父さんは勉強が好きでいつも新聞を読んでいたと、尚子が慶太に語ったのは、『赤旗』のことだったのだ。慶太、はそのことに気がつくと嬉しさがこみあげ、北浜の話を遮って尚子の言葉をそのまま伝えた。

「やっぱりそうだったか、やっぱりな。彼が生きていたらなあ……」

北浜は嬉しそうに、しかし少し悔しそうに笑って、話を続けた。

「あの頃はちょうど、家を建てるのがブームだったんだ。しかしな、A造船は基準内貸金がうんと低くて、家を建てたい労働者は、みんなで外でもアルバイトをしてたはずだ。陽三さんもそうだった。痩せこけて、骨と皮ぽっかりだった。彼のアルバイト先はコンクリート会社で、ミキサーに入って内壁にへばりついた生コンを剥落とす仕事をやってたんだな。上から落ちてきたコンクリートに押し潰されて死んじゃったのさ。疲れ切っていたから、逃げられなかったんだろうな」

「事故で亡くなったっていうのは聞いてましたけど、そうだったんですか…」         も

北浜が語る凄惨な事故の模様を想像して慶太は身震いした。

「奥さんにしてみれば、話したくないことだろうからな……、会社は就業規則に反するっていうんで、葬式にも来なかったよ。アルバイト先の会社からの補償金と生命保険で、家
の支払は済ませたみたいだがな。建てたばっかりで、陽平君も赤ん坊だったから、奥さんもショックだったろうな。陽三さんは命と引き換えに新しい家を建てたようなもんさ」

「じゃああの家は、陽三さんの形見ということになりますね」
「まあ、そうだな。自分のねぐらをつくるのさえ命掛けっていうのが、A造船の労働者で、これが金持ち日本の正体でもあるんじゃないかな。そして、まともな生活を求めて闘う労働者は徹底的に攻撃される。俺たちも陰湿で激しいアカ攻撃にやられた。執行部から追われ、会社派が乗っ取ったと思ったら、会社解散に全員解雇だ。なあ、慶太君、俺が何を言いたいか分かるかい」

「陽平のお父さんが亡くなったのも、北浜さんたちが解雇されたのも根っ子はひとつということですか……」
「その通り。君が実家から仕送りも受けずに頑張っているから家庭教師の口を紹介したってことも確かにあるさ。でもな、ああいう陽平君を高校に入れてやるっていうのも、解雇を撤回させる俺たちの闘いに間接的だが繋がっていくと恩うんだよ。こじつけかもしれないが…⊥

北浜は話し終えると、ハイライトを深く吸い込んで、今度はゆっくりと長い煙を吐き出した。

陽平の家庭教師を続けろとは一言も強制することなしに、いつのまにか、その気にさせてしまう北浜の話に慶太はしてやられたと思った。そして慶太は北浜のダメ押しの一言にあっさりと脱帽した。

「慶太君、それに尚子さんは陽三さんを失っただけではなかったみたいだな。君は尚子さんを苦手にしているみたいだけど俺があの夫婦と付合のあった頃はな、何ていい奥さんだと思ったくらいだ。何と言ったらいいのかな、俺が行っても窮属な思いをさせないよう迎えてくれて、少なくとも、君が昨日電話で話していたような尚子さんではなかった。尚子さんは陽三さんをなくし、自分の素敵な美しきも失ったのかもしれないな」

人間の性格をも一八〇度転換させてしまう日本社会の現実を教えられて、慶太は、尚子に対して済まないことをしていたという思いが急に募ってきた。


四月も中旬を過ぎ、たまには気分を変えるのも良いだろうと慶太は思い、授業を日曜日の朝に振替えた日もあった。快晴の道すがら、満開の桜を方々に楽しんできた慶太の足取りは心持ち軽快だった。

松野家のドアチャイムを鳴らしたが応答はなく、慶太は小首をかしげた。尚子の不在は事前に伝えられていたが、かわって陽平が慶太を迎えてくれるはずだった。慶太はちょっと思案したが、勝手に家の中に上がりこんだ。ノックをして襖を開けると陽平の後ろ姿が見えた。

陽平はヘッドホーンをして手には押しボタンのついた機械を持ってテレビ画面に向かっていた。「ファミコン」と呼ばれるテレビ用ゲームを陽平はしていたのであった。

慶太が「ようっ」と言って勢いよく陽平の肩をボンと叩くと、陽平は身体をブルッと震わせ、慌ててテレビのスイッチを切った。そして振り向くと、今度はバツが悪そうに下を向いた。勉強の妨げになるとして、「ファミコン」 の使用を陽平は尚子から禁止されているのだった。

「お母さんがいないんだから、ヘッドホーンをつけることなんかないじゃないか」
「でも……」

陽平は弱々しげに応えた。

「心配するな、お母さんに言いつけたりしないから。午前中勉強して、終わったら一緒にファミコンしようぜ」

陽平は安心したのか、いつもと違ってさほどの抵抗も見せることもなく、筆記用具をテーブルの上に置いた。学習意欲の希薄さの当然の帰結として、陽平の学業成績は不振を極めていた。数学について言えば、二年生になっても末だ一年生の最初の単元を理解できずにいた。だいたい陽平は変数というものを全く理解できない。三個のリンゴや十本の鉛筆は思い浮かべても、Ⅹ個のリンゴ、Y本の鉛筆となるともうお手上げだった。それでもXやYを含む数式を形式通りに整理することだけには、やっと手がつくようになった。

慶太は陽平との会話を滑らかにする助けとして、授業の始まりに「おさらい」と称する儀式をすることにしていた。

「さてと、五ひく三は二だよな、それでは三ひく五は?」
「マイナス二」
「では一ひく玉は?」
「マイナス四」

この「おさらい」はわざと簡単な問題を出して、陽平に何か言葉を喋らせるための苦肉の策であった。

「よーし、じゃあ、一ひくマイナス五は?」
「マイナス四」
「陽平、引っ掛かったな、マイナスの記号が二つ続いたときはプラスになるんだったよな、それではもう一回」

しかし、簡単な問題でも、陽平は三回に一回の割合で間違えた。そして陽平の理解はこの水準を越えることがなかった。

「陽平、それではもう一回」
「……六」
「ピンポーン、正解」

こんな調子で慶太の授業は進められていった。慶太はその場しのぎの教え方では先に進めないと思い、小学四年生の算数の教科書を手にいれた。そこまでさかのぼって、分数の計算から出直すつもりであった。陽平はその教科書を見て怪訝な顔をした。

「ファミコンも最初に失敗すると後が続かないだろう。数学も同じさ。陽平、焦らないでここから始めよう」

陽平は納得したのかしないのか、頭を掻ながらただ黙っていた。幼い頃罹った水痘の処置を誤って、陽平は四六時中身体を掻くようになり、落ち着きのない子供になった。そう尚子は慶太に語ったことがあった。

陽平がうなづきながら聞いていたのを見ると、慶太の新しい計画は、成功したかのように見えた。

「ようし、今日は終わりだ。陽平、メシを食ってからファミコンをやろう」

二人は下に降りて、尚子が出かける前に用意していたカツ井をたいらげた。二人は部屋に戻って少し休むことにした。陽平は窓から外をぼんやりと眺めていた。慶太は横になって本を読んでいたが、やがてうたた寝をしてしまった。

「こらあ、そんな事しちゃ桜がかわいそうだろう」

慶太は陽平の大きな声にハッと現実の世界に戻った。陽平は外に向かってもう一度叫んだ。慶太は起き上がり、急いで陽平の側に寄った。陽平の家から五十メートルほど離れた桜の木の下で子どもたちが三人、枝を折ろうとしていた。陽平はそれを咎めると、子供たちは蜘蜂の子を散らすように逃げていった。

「陽平…⊥と慶太は言いかけたが、言葉をどう継いだらよいか見当がつかなかった。陽平は別に興奮した様子も見せず、無口な中学生に戻っていた。慶太は彼の顔をまじまじと見つめたが、いつもとかわらない顔だった。ふと慶太は北浜が見せたくれた、あの写真の顔を思い出した。目元の涼しげな優しい顔--陽平は死んだ彼の父親にそっくりだった。


受験の年を迎えた。二年の間、陽平は二〇センチ以上も身長が伸び、慶太の背丈を凌駕するほどになった。彼の部屋にはアイドルタレントのポスターが貼りめぐらされ、他の中学生と共通する陽平の成長を伺わせた。しかし、陽平の性格の骨格を成す沈鬱なムードには変化の兆しがなく、クラスで最下位を維持してきた学業成績も相変わらずだった。陽平の志望校は彼の偏差値から自動的に弾き出され、出来の悪い生徒が集まるということで県下に名の知れているC高校に決まった。

「陽平、なかなか立派そうな高校じゃないか」

グランド側から鉄筋コンクリーート四階建ての白い校舎を眺めながら、慶太は陽平に言った。慶太は陽平を励ますために、受験をあと一ケ月に控えた二月の寒い日に、C高校の下見に出かけてきたのだった。

二人は白い息を吐きながら、敷地をグルッと一回りして出発点に戻ってきた。

「おやっ、あれは何だ」

部室が並んでいるサークル棟の付近に一冊のノートが落ちていた。慶太は駆け寄ってそのノートを拾った。

「美術部って書いてあるぞ、活動日誌だな、こりぁ」

中をパラパラめくって見ると、ところどころにイラストを交えながら高校生らしい丸文字が並んでいた。

「随分活発そうじゃないか。陽平おまえ絵を描くのが好きだったな……いいんじゃないか、美術部なんか」
「でも、遠いから…」

県北のF市にあるC高校への通学には、陽平の家からJR線を乗り継いでゆうに二時間はかかる。陽平はそれを気に掛けていた。

「まあ、そうかもしれないなあ、いずれにしても合格してからの話だ」


**********************


貼り出された掲示板に二人は陽平の受験番号と名前を発見したのち、二人は下見の時と同じ田舎道をF駅に向かって歩いていた。

「ホッとしただろ?」
「ウン」

いつものように陽平はかすかに領いた。

「俺もホッとしたよ」

二人の歩く姿だけ見ると、合格したような陽気さは感じられなかった。二人は黙々と歩き続けた。しかし、いつものように無理に明るさを装って話をすることもない。尚子に電話で合格の報告をしていた陽平に笑顔がこぼれたのを見ただけで、慶太にはそれでもう十分だった。

しばらくして、慶太は呟くように、陽平に尋いた。
「俺はいったい、おまえに何を教えたんだろうな」
「先生は計算を教えてくれた……」

陽平が初めて慶太に下した肯定的評価に、慶太は陽平らしい優しさを感じて思わず苦笑した。

「そうか・…・、そうだなあ」

折りからの突風も凪ぎ、春の夕陽が西の空を真っ赤に染めながら、二人の影法師を地べたに長く映し出していた。

長かった陽平との格闘にもやっと句読点を打てる時が来た、慶太はそう思うのであった。

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