2011年7月13日水曜日

あれから4ヶ月

4ヶ月以上の空白。あの大震災があって、自分の思いをどう言葉にしていいかわからず、その後もタイミングを失って今日になってしまいました。

大地震の日の夕方、急遽、古岡ともやさん(道議予定候補)、紺谷よしたか市議、市戸ゆたか市議、それから本間かつみさん(市議予定候補)に党地区委員会事務所にあつまってもらい、古岡さんを本部長に、災害対策本部長を起ちあげました。避難所になっている市役所の8階の会議室、電車道路に面した窓にへばりついて避難した方々が見つめる先は、電車道路あたりまで迫っていた津波。外は真っ暗ですが、光の反射で津波の位置がわかりました。それ以上津波が寄せてこないことをたしかめ、「何か困ったことがあったらいつでも連絡くださいね」といい残して、その日は避難所をあとにしました。それ以降のことは、古岡ともやさんのブログ(http://furuoka.cocolog-nifty.com/blog/)が詳しいです。

家には、たまたま石巻から函館に里帰りをしていた娘のあさひ、地震直後に夫のともやくんから「大丈夫だった」のメールがあったと。翌日からともやくんとの連絡が取れなくなりました。それからずっとあさひはネットで、ともやくんの妹と、女川に住んでいるともやくんのおかあさんの安否確認の毎日でした。

テレビでみた仙台市若林区の津波映像。あの場所は私たち家族にとって思い出の場所でした。私たちは塩釜市に住んでいました。保育園が休日で、妻も私も仕事があり、名取市の妻の両親に子どもたちをあずけるとき、中間地点のコンビニで待ち合わせをして、おじいちゃんの車に乗り換える場所でした。いたたまれない気持ちになりました。

ともやくんのおかあさんと妹が大丈夫だとわかってからちょっとしたころ、福島市に住んでいる妻の妹一家は、放射能の影響を逃れるために、福島を脱出し、新潟からフェリーで苫小牧を経由し、函館にやってきました。妹はパニックになっていました。娘のはなちゃんを合格したばかりの福島の高校に入学させるか、だれも知り合いのいない新潟の高校に入れるか悩んでいました。気持ちが10分おきにかわると。1週間ほど函館に滞在して結局福島に帰っていきました。

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