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2012年8月6日月曜日

おはよう平和行進~「精霊流し」

今日は、広島に原爆が投下されて67年目の8月6日です。函館では1984年の「核兵器廃絶都市宣言」の翌年から、8月6日の早朝「おはよう平和行進」が行われています。今年が28回目。朝7時30分に市役所の「核兵器廃絶都市宣言塔」から出発し、函館駅前の宣言塔(いまは塔から形がかわっていますが)まで行進して、原爆投下の8時15分に黙祷を行います。

雨が昨夜から降っていたので「できるかな」と心配していたのですが、開始時間にはきれいに晴れました。私も共産党を代表して決意表明して行進しました。

以前、8月6日をテーマに書いた文章を『道南新報』に書いたことがあります。紹介します。

さだまさしの自伝的小説だと言われる『精霊流し』を映画化したビデオを最近観ました。中学のころ、彼の同名の曲をよく聴いていたこともあり、タイトルに惹かれて借りたのですが、ストーリーのラストに、主人公の出生の秘密が、長崎への原爆投下による悲しい出来事とともにあきらかにされます。

さだまさしが、毎年、8月6日広島の日に地元の長崎でコンサートを開いていたのは知っていましたが、この映画を観て「そうだったのか」と思いました。

そういえば彼の曲に『広島の空』という作品があります。

「この町が燃え尽きたあの日/叔母は舞い降りる悪魔の姿を見ていた/気付いた時炎の海に/独りさまよい乍ら/やはり振り返ったら/稲佐の山が見えた」

「あの町が燃え尽きたあの日/彼は仲間たちと蝉を追いかけていた/ふいに裏山の向こうが/光ったかと思うと/すぐに生温かい風が/彼を追いかけてきた」


※この文章は、「道南新報」(2004.8.29号)に掲載されたものです。

2012年7月26日木曜日

ラジオ体操

小学校も今日から夏休み、ラジオ体操が始まりました。私も町会役員として、ラジオを持って、会場に毎日行くようになって10年くらいになります。以前ラジオ体操について書いた文章を紹介します。

「♪あたらしい朝がきた 希望の朝だ 喜びに胸を開け 大空あおげ ラジオの声に 健やかな・・・」――私が小学生の頃といえば、もう四〇年以上も前になりますが、あの頃と変わらないラジオ体操の歌。そして体操の仕方もまったく同じ。カードを首からぶらさげて、体操が終わると一目散にカードにハンコ(最近はシールのところもありますが)を押してもらいに列をつくる、そんな光景も昔と同じです。  町会の青少年部の役員となり、毎日ラジオをもって小学校のグラウンドへ。時間前からすでに学校に来ている教頭先生と、何人かの子どもたちが花に水をやりながら体操のときを待っています。それはとても平和で、とてものどかで、心が和みます。

無邪気なこどもたちの笑顔はもちろん、運動不足ですっかりなまってしまった体の筋肉痛もなぜか妙に心地よく、何かとても得をしたような気分になるのです。早起きは三文の得、ラジオ体操万歳です。

※この文章は2006年に書いたものです。

2012年7月24日火曜日

世直しの原石

中学3年の社会科の時間、先生が胸を張っていいました。「日本の税金のあり方は累進課税制といって、所得の多い人が高い税率で、少ない所得の人が低い税率で税金を納めるんだ」と。私は38年前に教えてもらったことを今でも正しいと思っています。その後導入された消費税は累進課税という考え方と正反対の税金です。

38年前のこの思い出を私は好んで街頭で紹介します。朝の宣伝では、色とりどりのランドセルを背負った子どもたちが次々と私の前を通って学校に向かいます。私が「収入のない子どものお小遣いにも税金をかける消費税は間違っています」とつけくわえると、子どもたちが、私の前で立ち止まり、ペコリとお辞儀して「おはようございます」と声をかけてくれます。門前に立つ校長先生になったようでした。

同様の話を森町で街頭でしました。終わると子どもたちが駆け寄ってきました。もじもじしながら「これ洗ってないんですけど」とプレゼントを私に差し出しました。足下に落ちていたと思われる小石でした。子どもと握手をしてありがたく受け取りました。「世直しの原石」という言葉が頭に浮かびました。

さて社会科の先生は私の担任でした。同期会で再会しました。先生はそのとき道教委の仕事をしていて「共産党にはずいぶんやられているよ」と笑って話していました。それでも同期生たちの前で「今度高橋佳大君が衆議院選挙に立起することになった。応援してくれ」と言ってくれました。私が96年に行われた衆議院選挙に立起表明をした時のことです。残念ながら先生は在職中に急逝されました。

2011年2月16日水曜日

三色の涙 『大地の子』に寄せて②

シゲさん、僕は今年になってHさんと知り合いました。Hさんは「満州」から帰国するすべもわからないまま、おかあさんとともに「残留」を余儀なくされた「中国残留母子」でした。『大地の子』の作者である山崎豊子さんの表現を借りれば、「戦争犠牲母子」です。

Hさんは8年前に家族とともに帰国し、現在函館に住んでいます。彼は「私はまだ日本語がうまくないけれど」と断りながら、それでもよくわかる日本語で「私は『大地の子』をみるたびに、涙があふれてしかたがないんです」と僕にいいました。主人公の陸一心の運命と自分の人生が重なりあうのでしょう。

『大地の子』をみて流す涙には3つの色があると僕は思います。侵略戦争がもたらした悲劇への涙、「文化大革命」という名のもとに行なわれた迫害への涙、そしてそのなかでも理性に生きた人々への感動の涙です。(『こんにちは佳大です』 1996.6.23号)

追記 Hさんもまた日本人であることから文革時に迫害を受けたそうです。三角帽をかぶせらされ、首から看板を吊るされたと。その後、復権したとのことで、そのことを記した文書を大切そうに私にみせてくれました。私はこのミニエッセイのつづきを考えていたのですが、その後「こんにちは佳大です」のコーナーが終了となり、いまでは何を書こうとしていたのか思い出すことができません。

2011年2月14日月曜日

えびす顔の悲しい思い出 『大地の子』に寄せて①

塩釜の加藤シゲさん、お元気ですか。僕の方は函館に来てもう2年になります。赤旗の配達をしているシゲさんに「ひざの痛みはナジョですか」と聞くと、「なあに年だからね」と、まあるい顔をえびすさんのようニコニコさせ、決まって遠慮がちな言葉を返してきましたね。そんなシゲさんを今でもよく思い出します。

ひょんなことからシゲさんが中国語を話せることを知った僕は、悲しい思い出を根掘り葉掘り聞いてしまいましたね。満蒙開拓団の営農指導員であった夫と「満州」にわたったこと、夫が召集され、ソ連軍の参戦による逃避行の中でお子さんを病気で失ったこと、その後、八路軍の要請で看護助手として7年間も中国に足止めをくったこと、そしてやっと故郷の山形に帰るとすでに夫が再婚していたこと。

僕は胸がつぶれる思いで聞きました。シゲさんは『大地の子』をどういう思いで見ましたか。これから僕の感想を書きます。(『こんにちは佳大です』1996.6.2号)

2010年12月21日火曜日

仏前に赤旗

まだ小学五年生か六年生だったころ金曜日が来るのを心待ちにしていました。朝早く起き、近所の家に行き、玄関前に置いてある大きなお茶箱のフタをあけ、「赤旗」日曜版と「少年少女新聞」を一部ずつとりだし、一目散に駆け出します。家に戻ると、家族のだれもが起きだす前に、日曜版の子どものページのマンガを読み、その後じっくり少年少女新聞を読んだものです。

2010年12月2日木曜日

戦争を知らない子供たちを唄ったころ

今年の10月24日、函館の医療者9条の会の方々が中心になって実行委員会をつくり、早乙女勝元講演会が行なわれました。私は残念ながら聞きにいくことはできなかったのですが、妻が実行委員のひとりとして参加し、講演後の懇親会で早乙女さんが「何年前だったでしょうか。函館中部高校の文化祭で講演したことがあります」と言ったそうです。それは34年前の1976年です。間違いありません。函館中部高校2年生の私がその講演をきいていたのですから。その講演は私の記憶にずっととどまり、その時のことをエッセイに書いたこともあります。最近、そのエッセイを発見したので紹介したいと思います。ちょっと気取った文章ですが・・・。

2010年12月1日水曜日

ドイツ・イデオロギーの思い出

「それはいけません」―私の考えについて「いい」とか「ダメ」とか言わずいつも見守ってくれている先輩の宮野千秋元市議が強い調子でいいました。最近あまり本を読んでいないことを話したときのことです。

大学時代は、仕送りが送られると、その中から一万円をもって本を買い読み漁りました。読書によって、ジグソーパズルのピースをはめこむように世界が広がったような気がしました。

2010年11月30日火曜日

スト破りの言い分

1980年11月、秋晴れの東北大学法学部のキャンパスの立て看板に「ストライキ決行中」の文字が躍っていた。毎年値上がりする授業料。苦しい家計から学費を捻出する田舎の両親の顔がちらつく。勉強好きの法学部生が授業を欠席してストに起ちあがるのはよほどのこと。ところが五百人の学生の中にたった五人だけのスト破りがでた。

2010年11月29日月曜日

スケート

父の仕事の関係で、私は中学に上がるまで釧路に住んでいました。わが家は湿原のヘリにあり、あたりには湿地が広がっていました。池のような大きな水たまりがところどころにあり、冬は凍結するので私たちはそこでスケートをして遊びました。

2010年11月28日日曜日

ご飯食べにくるかい

父が亡くなったのが三年前。肺がん発見からわずか二ヶ月のことでした。肺がんと告知され、余命一年以内と知らされたとき父は「オレの望み通りガンになった」と言いました。脳卒中で寝たきりの祖父を十年以上介護していた父は、家族に面倒をかけず一気に逝くことを人生の美学としていたのかもしれません。

2010年11月27日土曜日

空の名前

『空の名前』。本棚を整理していたら出てきました。「ほそまい雲」とか「もつれ雲」など聞きなれない雲の名前が紹介されています。空にぽっかり浮かぶ雲の名前がわかったら、目に映る景色をもっと楽しむことができると思い、以前買った本です。

2010年11月26日金曜日

ルーツ

母方のルーツは石川県だったらしいのですが、私の母は自らのルーツをあまり知らないようです。「わけあり」で北海道に渡った人たちは子孫に出自を伝えなかったのでしょう。それにしても不思議です。数世代前の先祖がどこにいたのかわからないのに、もっと昔の先祖の居場所がわかるのです。母親の母親の母親の母親の母親。五世代前の先祖にたどりつくのに百年さかのぼるとしましょう。

五十世代前の先祖は千年前。一万世代前のおばあちゃんは二十万年前に生きていたことになります。二十万年前と言えば人類進化のエポック、新人(ホモサピエンス)がアフリカで生まれたころです。

私のルーツはアフリカですなんていうと訝しがられるかもしれませんが、祖先のアフリカから日本列島へのはるかな旅を想像するのは愉快なことです。思考のものさしを長く伸ばしてみるのもたまには必要です。『コーヒータイム』 2006年.2月.12日号

追記

アフリカからの人類の旅について私が興味深く読んだのは、『人類の足跡10万年全史』(スティーヴン・オッペンハイマー著 草思社)、『5万年前-このとき人類の壮大な旅が始まった-』(ニコラス・ウェイド著 イースト・プレス)です。どちらも翻訳本です。

2010年11月25日木曜日

日高令子さんのカレンダーと丸印

韓国語にはまって早2年。家族の呼び方がおもしろい。姉のことを弟は「ヌナ」と呼び妹は「オンニ」と呼ぶ。兄のことを妹は「オッパ」、弟は「ヒョン」と呼ぶ。私には弟が一人いるが「ヌナ」はいない。「ヌナ」と呼べる人といえば、少し年が離れていたが故日高令子道議が思い浮かぶ。

2010年11月24日水曜日

ビラまき讃歌

秋の陽の傾きと降りだしてきた小雨を気にしながら、小脇に抱えたビラの束が濡れないよう、足早に新興住宅街の一軒一軒に投函していく。ポストに入れたあと、きびすを返し、十歩二十歩と玄関を離れたとき、カタッと音がして、いまとどけたばかりのビラが、家の人の手に渡ったことを耳で確認する。

2010年11月23日火曜日

一九四五年十月函館市若松町キト旅館

「母上様・・・予想していたとおり、私どもの思想を迫害することは間違いであることが日本においても確認される時期が参りました。十二年目に活社会に接して感慨大なるものがあります」。

参院選終盤の(2007年)七月二十五日、畠山和也党候補が若松町の函館駅前で、日本共産党が侵略戦争に反対した党であることを訴えた時、私はこの一節を思い出しました。

宮本顕治(七月十九日逝去)と宮本百合子の往復書簡である『十二年の手紙』に載っている、顕治の、母への手紙です。網走刑務所を出所し上京する途中、暴風雨のために乗船できず、若松町のキト旅館に二泊した一九四五年十月十一日に書かれたものです。

戦争と植民地支配が進行した現場で命がけでこれに反対した日本共産党、その幹部ゆえの受けた長期投獄。「日本人の名誉を救った」(加藤周一氏の追悼文)党の一員であることは、入党以来変わらぬ私の誇りです。(『コーヒータイム』 2007.8.19号)

追記 「十二年の手紙」の最後に宮本顕治が函館から発信した手紙があったことを知り、15年くらい前だったでしょうか、私の先輩である宮野千秋函館市議(当時、故人)に教えたら、宮野さんは函館の古い地図をもとにその旅館がどこにあったのか調べていました。でもその結果がどうだったのかはわかりません。

追記(2012年10月12日)
キト旅館の場所ですが、本間勝美議員が古い函館の地図を博物館で見て、函館駅前のロワジールホテルが建っているところだと発見しました。さすがホンマップ。このニックネームは本間勝美さんの名前と地図のマップをくっつけたもので、本間さんが函館のまちのことなら何でもしっていることからつけられたものです。

追記(2012年10月12日)
宮本顕治さんが亡くなったのは2007年7月19日、畠山和也さんが参院候補として訴えたのはその一週間後です。それも函館駅前、宮本顕治さんゆかりの場所でした。

2010年11月22日月曜日

失くしたグローブと父の思い出

秋の夕陽を背に長く伸びた自分の影を踏みながら小学校三年の私はトボトボと家路についていた。どこで落としたのか、母に買ってもらったばかりの大切な野球のグローブが半日探し続けても見つからず、お気入りを失ったやるせなさと、母への申し訳なさとで足取りは重かった。うまい言い訳も思いつかなかった。

2010年11月21日日曜日

倍音

私は大学時代混声合唱団に籍を置いたことがあります。そのサークルの先輩が身近にいることがひょんなことからわかりました。函労会議前議長の武田和男さんです。十歳年上の先輩です。「小田和正っているでしょ。彼が三年生のとき僕が一年生。一緒に歌っていたんですよ」と教えてくれてびっくり。有名な音楽グループ『オフコース』の小田和正といえば私の世代であればだれでも知っています。

2010年11月20日土曜日

青葉通の一人歩き

アーケード街にある仙台市一番町の喫茶店。私はそこを高揚した気分であとにすると、下宿がある川内方面に向かって、青葉通りをゆっくり歩いていました。私が19歳になったばかりの大学一年の残暑の秋。31年前のことです。大学の民青同盟の二人の先輩に誘われ入ったその喫茶店で、私は共産党への入党を呼びかけられました。

2010年11月19日金曜日

ホヤと春菊

私は食べ物の好き嫌いは少ないほうだと思います。でもどうしても食べられないものがありました。『春菊』と『ホヤ』がダメでした。何か毒物でも口に入れたように感じ吐き出したものでした。母親の影響かもしれません。子どものころわが家の食卓に『春菊』も『ホヤ』も乗ったことはありませんでしたから。