2015年10月17日土曜日

縄文人は石狩鍋を食べたか?

このタイトルはちょっとした冗談です。でも縄文人とサケは深い関係があるようです。まず石狩鍋とはどういう料理か。

「石狩鍋(いしかりなべ)は、鮭を主材料とし味噌で調味した日本の鍋料理であり、北海道の郷土料理である。塩鮭を用いた三平汁と混同されることが多いが、石狩鍋は味噌仕立てであり塩漬けしていない生鮭を使用する」(ウィキペディア)

縄文人とサケの関係について興味を持ったのは、岩波新書の『環境考古学への招待-発掘からわかる食・トイレ・戦争』(松井章著・2005年発行)を読んだからです。


まず。該当部分を引用してみましょう。

「縄文土器の大家、山内清男さんは、縄文文化が東日本に栄え、西日本では文化内容も人口密度も劣るのは、東日本の縄文人がドングリとサケやマスを主食にできたのに対して、西日本にはドングリしか頼る主食がなかったからと論じた。この説は厳然と存在する縄文文化の東西のさけます格差を説明するのにうってつけで「鮭鱒論」と呼ばれ、多くの研究者の支持するところとなった。」

「鮭鱒論」には異論もずいぶんあるとのことですが、私にはとても興味深い話です。こんなことも書いていました。「「鮭と酒は銚子限り」という言葉があるように、近年のサケの遡上域は、利根川以北である」。

それでサケに親しみを感じてせっせと茂辺地川に足を運んでサケを見学にいっているというわけです。この秋だけでも4回も行ってきました。「茂辺地川を遡るサケ」

では縄文人はどうやってサケをたべたのだろうか。

「産卵を済ませたサケは、息も絶え絶えに川の流れに身をまかせながら生命を終える。そうした身がパサパサになったサケは、アイヌ語でホッチャレと呼ばれ、見向きもされなかったが、それは塩をふんだんに使い塩鮭を作ることができるようになった時代のことだった。塩蔵という画期的な食料保存技術が普及するまで、主要な食料保存法は日干しと煉製、冷涼な地方では、発酵法も実用化されていたかもしれない。ホッチャレのような脂の抜けた身はそうした保存法にはむしろ向いていたのではないだろうか。川を遡るサケを捕獲するだけでなく、産卵を終えて流されるサケまで利用することができれば、その漁獲量はたいへんなものであったろう」

やっぱり石狩鍋も三平汁も縄文人は食べてなかった。でもサケは食べていた。

札幌駅でサケの燻製をつくっていた続縄文人?

「今はモダンな札幌駅の建て替えの際の発掘では、本州の弥生時代に相当する続縄文時代の柱穴が多く検出され、その周辺の大量に焼けた土から数万点ものサケやマスの椎骨と歯が出土した。私はこの遺跡では、サケやマスを煉製にするスモークハウスや、日干しにする乾燥棚が毎年建て替えられた結果、無数の柱穴や大量の焼土が堆積したものと考えた」。

さて、石狩鍋の「石狩」、「サケ」、「縄文遺跡」この3つ言葉をテーマにした資料館があります。石狩市にある「いしかり砂丘の風資料館」です。私もそこに行ったのですが、その報告はまたのちほどしたいと思います。

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